10 1/18 UPDATE
村上春樹の翻訳による新たなるフィッツジェラルド短篇集。収録作はすべてここで初出の訳し下ろし。『ギャツビー』以前の時代(つまり1920年から25年)にフィッツジェラルドが上梓した短篇のなかから、訳者が強く愛好するものを選びぬいた全五編を収録。もちろんこれらは初邦訳ではない。80年代初頭の荒地出版社ヴァージョンほか、いくつかの訳がこれまでにもあった。しかしなんというか。ああこれだ待ってました、いやほんとありがとうございますと頭を垂れながらむさぼり読みたくなる。僕にとってはそうした一冊だ。
村上訳の『ギャツビー』は衝撃的だった。それは翻訳家と原著者(および原文)との好相性といったレベルの話ではなく、ある種鬼気迫る、自らの生命の危険すら顧みない降霊術師による口寄せのようなものだった気がする。言い方を変えよう。いかなる名曲の譜面があろうが、それは演奏者によって千差万別の変化を遂げる。一山百円の中古45のなかから、至上のグルーヴを組み立てることができるDJもいる。「成功した翻訳文学」の凄みとはここにあるし、母語でそれを享受できる機会というのは、それはもう、得も言われぬほど贅沢なものなのだ。そして、その「贅沢さ」について、おそろしいほどまでに執着し、その実現のためにナノ単位で訳文を削り出しているような翻訳家の筆頭が村上春樹だろう。言うまでもなく、そうした態度こそ、フィッツジェラルドを「降ろしてくる」際に必須のものだった。村上訳『ギャツビー』ソフトカバー版がロングセラー化(25万部を突破したらしい)したのは、こうした点が広く深く読者に支持された結果なのだと思う。
収録の五作は、いわゆる「華やかなるジャズ・エイジ」時代に書かれたもの。表題作をはじめ、「メイデー」、「リッツくらい大きなダイアモンド」など、あまりにも細密に織られたテキスタイルゆえ、一度袖を通したらびりびりに破けてしまうシャツのような、豊かで、都会的で、洗練されていて、そして信じられないほど哀しく、美しい。アメリカには甘い夢を見ていられる瞬間が何度もあった。直近だと90年代中盤から後半だろう。それらはいつも木っ端微塵になる。しかし、これほどまでにその「夢の時間」のイノセンスとテンダネスを芸術として固着させた作家はフィッツジェラルドを置いてほかにいない。たとえばあなたがいま、洋服が好きで、そして現今の不況報道に心ふさいでいるのだったら、まさに本書を紐解くにあたってのベスト・タイミングといえるだろう。名盤を凄腕DJが精魂こめてミックスしたごとき唯一無二の「贅沢な」一冊。和田誠筆による美麗筺入りにて発売中。
Text:Daisuke Kawasaki(beikoku-ongaku)
『冬の夢』
スコット・フィッツジェラルド著 村上春樹・訳
(中央公論新社)
1,890円[税込]