15 12/09 UPDATE
本書はひとことで言うと音楽理論書だ。18世紀に確立された十二平均律、つまりヨーロッパのクラシック音楽に端を発する理論について、「なぜ、それが音楽となるのか」という基礎的なポイントから詳述されていく。周波数、音程と音階、リズム、和声、調性、多様な形式とその意味などを構造的に、段階的に学ぶことができる――のだが、しかし本書の一大特徴は、こうした理論書として当たり前の内容「以外」のところにある。なによりもまず、圧倒的な「読みやすさ」。これが重要だ。記述のいたるところに、「理論だけ」ではなく、その先へと伸びていくベクトルが内在しているところ。さらに、それを受け止められるだけの思想的な「奥行き」があるところ、これが本書における最大の美点だ。だからこう言うことができる。これまでに音楽理論書を読んだことがない人はもちろん、「読もうとして、途中で幾度も挫折した」そんな経験がある人ならば、迷いなく本書を手に取ってみるべきだろう、と。
本書の「奥行き」とは、理論の向こうに人の姿があることだ。だから無味乾燥な「理論だけ」が平板に並べられた一冊とはならない。本書の筆致はまったくその逆で、そもそもの音楽たるものの効用、人の感情と心理において、化学反応を起こさしめることが容易にできる、その能力の源泉を「理論」のなかに求めつつ、それら理論が形成されてきた歴史も含めて、たいへんに読みやすくまとめる、ということが主眼となっている。たとえば、冒頭の「はじめに」では、こんなふうに著者から語りかけられる。
「音楽は、耳でのみ知覚でき、心でのみ受け入れられる、人間の内面を表現する芸術形態である」
「旋律、リズム、和声を形作り、それを紡ぎ合わせて意味のあるタペストリーに仕上げるのは、人間の心や精神である。音楽には、個人の直接経験やその心象風景が染み込んでいる」
音楽と言語、あるいはそのほかの芸術との共通点や接点について、記述のいたるところでつねに思考の糸が張り巡らされているところが、とてもいい。こうなった背景は、本書が属するのが「アルケミスト双書」のシリーズだというところが大きいのだろう。この双書には、ルーン文字、アイルランドのラウンドタワー、ケルト模様の幾何学、未確認飛行物体、もちろん錬金術など、一冊ごとにテーマを立てては、「世界の不思議」へと踏み込んでいく、魅力的なラインナップが揃っている(村上春樹の小説で一時話題となった「リトル・ピープル」の伝承を掘り下げたものもある)。だから本書が、音楽における「魔術的な力」を強く意識しつつ書かれたのは、ごく自然な成り行きだったはずだ。
ところで僕は、以前、日本人のポップ音楽の評論家と自称する人々の大半が、楽典のひとつもまともに読んだことがない、と知って、大きなショックを受けたことがある。だから事実誤認だらけの、程度の低い感想文と言うほかない「印象批評」とやらだけが、ただひたすらに、狭い日本語世界のなかに投射し続けられるのみだった、のだろう。「日本語世界」とわざわざ書くのは、それらの大半は英語力すらきわめて低く、だから英語圏で大学以上の教育を受けられる可能性もなく(ゆえに受けず)、当然のこととして「西洋音楽を実践している西欧人」の一流の人士と個人的な関係を築き上げることも、やはり一切あり得はしなかった、からだ。幸運なことに、そうした時代はすでに遥か遠い昔だ。粗製濫造された凡百の駄文や、それらの幇間踊りと釣り合う程度の商業音楽は、容赦ない淘汰の過程の只中にある。本書を読んで理解したあなたは、そんな失敗の歴史よりもずっと先へ、実りある豊かな未来へと歩を進めていくことができるはずだ。もちろん、音楽の実作者としても。
本書のなかにはこんな記述もあった。上へ上へと向かって伸びていき、より多くの倍音を和声構造のなかへと組み込んでいく音列の発展のありさまを指して、こんなふうに書かれている。
「音程の開きは、その距離を旅するのに費やす時間を示しているかのようだ」
「それは、客観性の象徴(数学)から複雑な内面への旅でもある」
とてもいいフレーズじゃないか、と僕は思う。
音楽の基礎には自然科学的に解析できる理論がある。そしてどの言語にも(英語はもちろん、日本語にも)「固有の厳密な」構造がある。つまり科学がある。だから僕は「小説とは楽譜なのだ」と考えている(ほかの人がどうなのかは知らない)。こうした僕の観念が音楽理論の側から実証されているような、そんな読み心地すら本書にはあった。これが気に入った人は、同シリーズの『ハーモノグラフ』をぜひ試してみるといい。「宇宙は数の法則で支配され、音楽で満たされている」というピュタゴラスの理論を視覚的に確認できる「装置」とそのアイデアがテーマとなっている、そんな一冊だから。
text: DAISUKE KAWASAKI (Beikoku-Ongaku)
「音楽の美しい宇宙~和声、旋律、リズム」 (アルケミスト双書 )
ジェイソン・マーティヌー著 山田美明・訳
(創元社
1,200円[税抜]