15 12/22 UPDATE
80年代の一時期ほどではないが、つまり隔月誌状態ではないのだが、しかしときには季刊誌ペースで、あるいはSSとAWに定期的にコレクションを発表し続けるデザイナーのように、つぎからつぎへと本が出る――そんな片岡義男の最新短篇集がこれだ。ちなみに、こと小説だけに限ってみると、彼の作品発表頻度はここのところうなぎ昇りに増加し続けている。2000年代のあいだに発行された片岡義男の小説本は計6冊だったのだが、10年代はすでに記録更新どころか本書でもう8冊目。そしてオールド・ファンならよく知っているとおり、「量産すれば、するほど」無闇に精度が上がっていくのが片岡義男の小説というものなのだ。あたかもそれは、ナイトクラブで毎夜舞台を踏み続けることがなにより重要な、ジャズ演奏家の練達と熟成と同じであるかのように。
さて本書は、昨年の5月に発表されて好評を博した短篇集『ミッキーは谷中で六時三十分』と同じ制作チーム(編集者、ブックデザイン)にて手掛けられたものだ。同書の収録作は、すべての短篇に東京の地名や実在の場所が登場してくる「東京小説」としての側面があった。本書に収録の9篇には、そうした意味での統一性はない。あるとするならば――いつまでも他人事のように書いているわけもいかないので、この際言ってしまうのだが――収録された小説の大半を発注したのが僕だ、ということだ。ここの自分の役割については、これまで僕は、おおやけには口にすることはなかった......のだが、著者本人が「あとがき」で書いてしまっているので(僕が口止めしていなかったもので)、もはや隠してもしょうがない。収録作のうちの7つを、僕は発注し、「最初に読む人」となった。これらはすべて、ビームスが発行する文芸カルチャー誌『インザシティ』にて最初に発表されたものだ。
2010年に創刊された同誌のコンセプトも、僕が考えた。『米国音楽』の編集者(のちに発行人)だった堀口麻由美が編集長となった『インザシティ』という雑誌の特徴のひとつは、毎号「イシュー・テーマ」があって、それに沿った内容やモチーフが含まれた書き下ろしの短篇小説を集める、というアイデアだった。毎号のテーマも僕が考え、そして片岡義男に発注した。本書の作品収録順にそのテーマを記していくと、「シー・オブ・ラヴ」「作家DJs」「ボナペティ!」「ビーツ・インターナショナル」「スニーカー・ブルース」、イラスト特集号がひとつ、それから「ラジオのあの娘」だった。これらテーマのそれぞれに、見事なリターン・ショットを、やはり片岡義男が決めてくれたことは、言うまでもない。
僕のお薦めは、まずは、冒頭の三作だ。最初の「愛は真夏の砂浜」の書き出しは、いきなりこうだ。「西条美樹子は引っ越したばかりだ、ということを倉田明彦は思い出した」――すげえ、と言うほかない。寸分の無駄もなさすぎて、まるで瞬間冷凍されたノームコア達人の着こなしのようじゃないか? 続く「いい女さまよう」では、「赤いダブル・キャブのダットサン」なんてのがおもむろに登場してくるあたりで、読みながら「おぉ」と声を出してしまって、然るべきだろう。そして、「銭湯ビール冷奴」! 天から墜ちてきたかのように、ストーリーの只中に突如登場してくる主人公が、一日のたった数時間のあいだに、その後の人生のすべてを決してしまうほどの体験を「じつにさりげなく」通過してしまう、という、ある意味すさまじい物語がこれだ。日本語で書かれた米文、というものが僕の小説的理想のひとつなのだが、この一作はかなりそれに近い。
「ひとりの人」の個別の事情、一見するとささいな出来事が、全地球的な普遍的真理へと通じる回路ともなり得る――ということを、ほんのすこしでも実感できるということ。僕にとって、小説を読むという行為にかんする歓びの大部分はそこにある。しかし悲しいかな、日本語で書かれた小説のなかに、そうした歓びを僕が感じることができるものは決して多くはない。理由はいろいろ考えられるのだが、ひとつ言うとしたら、そこに20世紀以降のアメリカ小説のような「ひとりの人」がいることが、まずないからだ。作中の人物、とくに主人公の自我が、ほぼ完璧に、地球上のありとあらゆる事物とはできるかぎり無関係に「孤絶」していなければならない、と僕は考えるのだが、これとは完全に逆の指向性を持つ小説が日本には多い。書かれたものがすべて、普遍ではなく、書き手の閉じた自我の内奥へと収縮していく、ということだ。読者はその収斂の過程に同化し、未開の混沌の一部となることをこそ求められる。そしてもしそこで二の足を踏んだならば、ありとあらゆる手段で「疎外」されていくという、日本のそこらじゅうでよくある話がミニマムに再現される装置となり果てているものが、やはり、日本語の小説世界のなかで圧倒的な大多数を占めている。だから片岡義男の小説作品は、「日本語のなかで」まさに、例外中の例外なのだと言える。
彼の作中の登場人物、とくに主人公は、いかにノンシャランのように見えても、しかしじつはいつなんどきでも、のべつ幕なしに、きわめて生々しく、ひりつくような皮膚感覚のもとで「自分以外のすべての存在」と触れ合い続けている。あるいは、そうした形でしか「外界」と触れ合うことができないという事実を、「当然のこと」として、意識の深いところであらかじめしっかりと受け止めている。ここにおいて初めて、その人物と外界の境界面で起きている「摩擦」の熱や痛みや軋みなどを、前述の「回路」をとおして、読者の脳内に転写してみることが可能ともなる。この構造が、片岡義男の「小説」作品にほぼかならずついて回る、重金属のようにソリッドな質量の感覚の出どころとなっているのだが、たとえばこれは、まったくもって「米文のお家芸」と同様のものだ、と言っていい。ヘミングウェイやサリンジャーの諸作にはあって、日本人の小説の大半には微塵も「ない」ものだ。
そんな「義男節」の流れのなかで本作を位置づけるとしたら、以下のように言うべきだろう。このところの彼の小説、とくに10年代に書かれたものは、ときに前衛と言っても差し支えないほどの手触りが目立っていた。写実的であり、客観的である(ありすぎる)ために、なんでもない日常がハイパー・リアリズムと化して高度の抽象性を帯び、ときに不条理の世界にまで突入していく......という例のあれだ。本書の収録作にもそうした傾向は下地としてあるのだが、作者がさらに前進している証しとして、自由闊達で風通しのいい、「まるで小説のなかで遊んでいるかのような」カタオカ・トーンが、長き不在を経たあとでここに戻ってき始めている。このことを、なによりもまず僕は言祝ぎたい。
最後に裏話をひとつ。『インザシティ』に既発の7篇だけではなく、あと2つの書き下ろしが本書には収録されているのだが、その2つぶんの「テーマ」も、本書の担当編集者から依頼されるがままに僕が考えた。どうせなら絶対に『インザシティ』ではイシュー・テーマにはならなそうなものを、とイメージした僕は、まず「ウィルダネス」を片岡義男に提案した。これが「蛇の目でお迎え」になった(のだが、作者当人から種明かしを聞くまで僕は気づかなかった......)。そしてもうひとつのテーマは、きっと実現化しにくかったのだろう、無視されてしまい、その結果、表題作が書き下ろされた――のだが、せっかくなので、この場を借りてそのボツ・テーマを発表しておきたい。それは「アーバン・カウボーイ」......たしかにこれは、書きにくそうだ(だったらそんなの提案するなよ、と僕はここで自分に突っ込む)。
しかしこう考えてみることはできるんじゃないか。テーマとしては不採用とはなったものの、片岡義男その人が、言うなれば「アーバン・カウボーイ」なのではないか、と。あらゆるテクストを、ときにランダムに投げつけられる暴れ牛めいた「テーマ」なんてものも、涼しい顔をして乗りこなしてしまう、映画で言えばジョン・トラボルタが80年に同名作品で演じたあんな姿と、とくに今作の片岡義男の小説群には、相通じるクールネスがあるような気がする――と、書くだけなら簡単なのだが、これほどの長きにわたって(14年の『ミッキー』が作家生活40周年記念の一冊だった)、恰好をつけ続けられるというのは、ただごとではない。世界広しと言えども、現在地球上にいる人物では、ポール・マッカートニーか、カール・ラガーフェルドか、クリント・イーストウッドか......そんなとんでもないレベルでの「軽やかなる遊び」に満ち満ちたこの短篇小説集、やはり僕の口からも「極上」だと言うしかない。
text: DAISUKE KAWASAKI (Beikoku-Ongaku)
「この冬の私はあの蜜柑だ」
片岡義男・著
(講談社)
1,700円[税抜]