honeyee.com|Web Magazine「ハニカム」

Mail News

彼女が消えた浜辺

彼女が消えた浜辺

現代イラン社会におけるモラルの混沌を描いたミステリー映画

10 9/15 UPDATE

アッバス・キアロスタミやモフセン・マフマルバフら「巨匠」連の作品を軸に、一時期日本でも盛んに公開されたイラン映画。しかしどうも近年、劇場で観る機会は激減している。いや、イランは依然として映画大国であり、今もさまざまな映画祭では相当数の新作が上映されてはいるのだけれど、ブッシュのアンチ・イラン・キャンペーンも災いしてか(後述するように理由はそれだけではない)一般の目にまで至ることは明らかに少なくなっている。本作も実は、昨年の「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」で上映されていて、そのときの仮題は英題そのまま「アバウト・エリ」......つまり"エリについて"。

カスピ海沿岸のリゾート地で3日間を過ごすべく、久々に集まった大学時代の友人たち&その子供たち11人(つまりテヘランの知識階級ということだ)。でもひとりだけ旧知ではない女性がいた。それが美しくてまだ若いエリ。このヴァカンスの音頭を取った女性、セピデーの子供が通う幼稚園の先生である。セピデーは彼女と、結婚に破れてドイツから帰国した旧友アーマドとを、あわよくばくっつけようと目論んでいたのだ。いろいろトラブルはありながらも、それさえ楽しんでしまえるような時間が過ぎる(タツノコプロの「みなしごハッチ」がイランでも放映されていたんだ、といった発見もアリ)。

しかしエリは一行と真底打ち解けようとするふうもなく、やたらと母親からの携帯を気にし、突然ひとりでウチに戻るとまで言い出す始末。翌日、エリは......子供たちの相手を浜辺で凧揚げに興じる残像を、まるで幻のように植えつけて忽然と居なくなってしまうのだ。荷物もなにもかもすべて残したまま。

......というように、確かにエリという女性は出てくるものの、ほとんど素性も詮索されず、名前さえ「エリ」という愛称しか判らないまま、彼女はほどなく画面から姿を消す。タイトルは「エリについて」だが、誰ひとりとうぜんエリについて正しいことを語れたりなんかしないのだ。

エリが消えたとき、ちょうど子供が溺れるというアクシデントがあった。彼女は子供を助けようとして荒れた海に呑み込まれてしまったのか? それともなにか理由があって、ひとりで帰ってしまったのか? 残された一行は俄然、エリがどういう女性だったのか、あれこれ詮索し推理し議論しはじめる。一瞬たりとも緊迫感が緩まぬ、多分にミステリ的な趣向のなか、やがて大きく立ち現れるのは現代イランの抱える「モラル」の問題だ。

それは守旧派と改革派が敵対の度を強めるアフマディネジャド政権下市民のジレンマのあらわれともいえそうだ。近年、イランの文化政策は保守化による既成強化が著しく、映画監督のなかにも拘束(!)されたり、ビザ発給を拒否されたり、なかには亡命同然になっている者さえいる(その締め付けの一端を伺い知るには、8月に公開されたアンダーグラウンド・ポップのドキュメンタリ・ドラマ『ペルシャ猫を誰も知らない』が格好である)。旧いモラルの生み出す弊害、偽善、進まぬ人権開放......そうしたものが、不在のエリについて探ることであぶり出されてくるのである。

そのままステージにも移せそうな精緻な構成とダイアローグ。それに敏感に対応する演技陣も素晴らしく、なかでもエリ役が『私は15歳』('02、限定上映のみ)でその年のワタクシ的主演女優賞に輝いた(笑)超級美女タラネ・アリシュスティだ、ってのがポイント高し(笑)。

しかも舞台劇的映画の陥りそうな欠点はここにはない。「これはアクション映画だっ!」などと言ってしまいたくなりそうな、手持ちキャメラを駆使した動的でダイナミックなショットが連続し、弛緩する暇なし。そしてひたすら凶暴に、もの狂おしく轟々と響く波の音が観客にまで「苛立ち」を伝染させ、サスペンスを煽るのだ。

Text:Milkman Saito

『彼女が消えた浜辺』
監督・脚本:アスガー・ファルハディ
出演:ゴルシフテェ・ファラハニー、タラネ・アリシュスティ
原題:About Elly
製作国:2009年イラン
上映時間:116分
配給:ロングライド

ヒューマントラストシネマ有楽町にて公開中

http://www.hamabe-movie.jp/

© 2009 Simaye Mehr.