12 8/01 UPDATE
私小説などという滅びかけた文藝形態の作家たることをことさらに標榜し、紛れもなくそうした作者たちの末裔であることをしっかり作品で示しつつも、こうしたジャンルに稀薄であったエンタテインメント性をも兼ね備える作風でいつしか人気作家入りしてしまった西村賢太の芥川賞受賞作が原作だ。しかし人間の、いやもっと極私的に、我が身の・我が心の醜さ薄汚さをこれみよがしに吐露してみせる私小説の書き手らしく作家の露悪キャラクターも強烈で、まあそれ故にテレビのバラエティでも珍重されているわけだけれど、西村がこの映画化作品に対してウェブ上で吐いてみせた、プレス資料への寄稿とは真逆ともいえる酷評罵倒を受けたうえで山下監督と西村賢太が繰り広げた、文芸誌「新潮」での終始秘めた戦闘モード全開の対談記事も話題になった。
まあ、原作と映画との関係というのは、とりわけネット上でかまびすしい漫画というジャンルにおいて顕著だけれど、はっきり言って原作権を売った時点で原作者側の負けである。改変されるのが納得できないのなら映画化のプロセスに自ら関わる契約をするしかないし、映画を観る者もできるだけ原作に引きずられるべきではない。だからといって原作者は、出来上がった映画を批判するのも自由であるべきで、その点まったくもって今回の西村の行動は間違いじゃないともいえる。
それでも、この映画は快作だ。それもまた間違いではないのだ。 山下敦弘という稀有な映画監督、そして、いまおかしんじというおそろしく個性的なピンク映画の監督でもある人物による脚本。このふたりは初のコラボレイションだが、なるほど作品のムードは両者近いものがあるので違和感はまるでない。いまおかに限らず山下敦弘は、本作ではいつもとは違ったスタッフとこの映画づくりをしているのだけれど、その新鮮さもあったのか、初期の傑作『ばかのハコ船』('03)あたりのバカバカしさと清新さ、そしていきなりぶっ飛ぶギャグセンスがここには甦っているのだ。
時は1986年。シルヴェスタ・スタローンの『コブラ』が封切られた年であり、いっぽうミニシアター・ブームも盛りあがっていた、そんな時代だ。主人公はそんな映画事情なんぞにはまったく関係なく、小説家になることをぼんやり目指す19歳の北町寛多(森山未來)。といっても実際に書きはしていない。収入は日雇い労働。それも財布の事情次第で行ったり行かなかったり。家賃は滞納に滞納を重ねているが、それは酒と風俗通いに消えている。父親が性犯罪者だったというトラウマもかなり強い。
そんなとき九州から出てきた専門学校生の日下部(高良健吾)が日雇い仲間に加わった。それまで「友達」という概念がなかった寛多に、同年代の彼がはじめてそうした感情を引き起こす。仕事がハケてのち、一緒に呑んだり、悪場所に誘ってみたりもする仲に。
実は寛多には話しかけたくてもかけられない女の子が存在した。行きつけの古本屋の店番をしている康子(前田敦子)だ。自分よりはずっと世慣れてるようで見栄えもよい日下部(でも江戸っ子であることだけがプライドの寛多は、彼を九州の田舎者だと内心思っている)に話しかけてもらって、めでたく康子と「友達」になれる。だが寛多と康子との「友達」の概念はまるで違った。というか寛多は男女間の「友達」というのが何なのか、まったく判っていなかった......。
原作との最大の違いといえば康子の存在だ。康子は映画オリジナルで原作にはない。しかし映画の空間内では絶大な存在感を示しているのだ。山下演出は「AKBのあっちゃん」だからといってまったく斟酌することなく、見事に彼らしく酷薄。「友達」になることをOKするや、恋情からセックスの対象へと極端にシフトする寛多のハタ迷惑な行動はもちろん、隣室にいる寝たきり老人の排尿を手伝ってあげるときの無垢な仕草と表情、そして寛多の反応(まだ俺もアレに触ってもらってないのに!)に素晴らしく表れている。そのあとの豪雨の中での乱暴な求愛シーンもそうだけど、前田敦子こそが核であるとさえいってもいい見事なヒロインぶりなのだ。寛多がおそらく最終的には摑めなかった「友達」の感覚を示す、水辺で三人が戯れるシーンはあまりにも愉しげで美しい。
映画は文学の追従者であってはならない。映画は映画的であるべきなのだ。
text: Milkman Saito
「苦役列車」
監督:山下敦弘
原作:西村賢太
脚本:いまおかしんじ
キャスト:森山未來、高良健吾、前田敦子、マキタスポーツ、田口トモロヲ
製作年:2012年
製作国:日本
上映時間:1時間52分
配給: 東映
絶賛公開中
© 2012「苦役列車」製作委員会