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「癒し系」ということなのだろうか。いつのころからか、時折アンソロジーが組まれるようになったピーナッツ・コミック選集本の最新作。翻訳が谷川俊太郎なのは当然として、巻末の解説が片岡義男だというところが見逃せない。
ピーナッツによって、僕は片岡義男を知った。ツル・コミック版の『うでずもう選手権スヌーピー』の解説を彼が書いていたからだ。そして僕は、70年代終盤にツル・コミック社が倒産してから、継続的にピーナッツを読むことはなくなっていった。ゆえに、本書に収録されている90年代の作品からは、(小さいものではあるが、しかし)新鮮なる衝撃を覚えた。
たとえば、「ショッピング・モールに駐車されたクルマの助手席に坐っているスヌーピー」というのは、はじめて見た。かつてスヌーピーは、クルマには乗らなかったはずだ。「クルマの窓から顔を出して、ベロを風になびかせている犬」をスヌーピーが馬鹿にする、というエピソードなら、読んだ記憶があるのだが。これはアメリカ人のライフスタイルが変化した、ということなのだろうか。それとも......?
著者のシュルツは9.11を目撃する前に他界した。それまで、つまり1950年から半世紀にわたって、この小さな世界を休まず描きつづけた。ヴェトナム戦争も、公民権運動も、ニクソン・ショックも、スリーマイル島の事故も、ソヴィエト崩壊も、湾岸戦争も──シュルツの筆を止めることも、鈍らせることもなかった。本書から僕が癒されるところがあるとすれば、まずその点だ。いままさにくすぶりつづける原発だけではなく、不可逆なる根源的な変化の象徴が、まるで地雷原のように敷設された日々こそが我々の日常なのだ、という認識が強ければ強いほど、ピーナッツの小宇宙における「かけがえのなさ」が、読者それぞれの心のなかにあざやかな刻印を残すはずだ、と僕は思う。
守るべき「日常」の真なる姿とは、なんなのか。そのために、なにをすべきなのか......我々はすべからく、いつもいつも壮大に、その肝要なる点について、考えたり、実行したりすることにかんして、失敗をしつづけている。しかし、「それでもなお」ここにピーナッツと、片岡義男がいることの意義は、とてつもなく大きい。その確証の一端を、手に取らせてくれるのが本書だ。
text:Daisuke Kawasaki(Beikoku-Ongaku)
「気持ちが楽になるスヌーピー」
チャールズ・M・シュルツ著 谷川俊太郎・訳
(祥伝社新書)
819円[税込]