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時代劇なのだが、剣豪は登場しない。それどころか、刀を抜くシーンも、喧嘩沙汰も、政府(幕府)内部のなんやかやも、色町も、一切出てこない。すでに隠居している主人公が、ただただ江戸の町を「歩く」という話。彼の歩速で、彼の視線で、江戸の四季のなかに息づく、人々とその生活文化と自然が綾なす様を、静かに──しかし、圧倒的な画力と細密きわまりない描写力にて──紙面に固着させていった全15篇を収録。
作品のなかでは明示されていないので、ややネタバレかもしれないが──この主人公というのは伊能忠敬だ。のちに全国を「歩いて」測量し、日本初の正確な地図を作成する彼が、最初の旅(蝦夷地への旅)に出立する「その前の日々」を本作は題材としている。天文に凝る主人公が江戸の町を歩きに歩くのは、「(測量のために)正確な歩幅にてあるく」訓練であることが、それとなく示されている。とはいえ、本作のなかでの彼は、とくに壮大な計画があって準備している人物というよりは、「緯度一度が何里なのか」歩いて確認しようとしている暇人として、まずは描かれている。であるから、日々の「ふらり」とした歩測練習のそこここで、寄り道もする(ここでさまざまな江戸風俗が描かれる)。また、彼が夢見がちな人物して設定されている点も重要で、ときに鳥や猫、蟻などの視点と彼のそれが同化して、「その視点から」江戸の町を眺めてみてびっくり、というシーンも多くある。こうしたSF的エクスペリメンタル・シークエンスと、活気ある潮干狩りの情景などが、まったくなんの違和感もなく並ぶところ、これぞ希代の絵師である谷口ジローの真骨頂だろう。
時代劇というものは、ファンタジーとならざるを得ない。それゆえ僕は、時代小説全般がおやじ向けのラノベとしか思えず、とても苦手だ。「見たこともない」日本の過去を、自らの所与のものと迷いなく信ずるがゆえに、じつに気軽に気楽に、そこに淫するという遊びには、僕はまず最初に生理的な拒絶感を覚える。本作『ふらり。』が、これほど見事に江戸情緒や自然を描きながら、時代「小説」にありがちな淫風の罠におちいっていない理由、その第一がまず、上記の画力と「アイデア」であることは間違いない。しかしそれ以上に重要なのが、全編につらぬかれている「LOST」の感覚なのではないか、と僕は思う。もう失ってしまったもの。さらに、我々が間断なく「失いつづけているもの」へのレクイエムと呼ぶべきトーンが、描線の一本一本の隅々にまで、基調低音のごとく流れつづけているように感じる。服喪のファンタジーとでも呼ぶべき、清潔で、愛らしいがゆえにもの哀しい「あったかもしれない日本」が、本書のなかにだけ存在を許されている。
日本という国土に住む人々が培った「漫画」という文化が生み出した、ひとつの極点といえる作品として、いまから時代が下れば下るほど、とくに海外で高く評価される一作となるのではないか、という予感がする。
text:Daisuke Kawasaki(Beikoku-Ongaku)
「ふらり。」
谷口ジロー・著
(講談社KCデラックス)
920円[税込]