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比較文学者かつ文学理論家のスピヴァクがブルガリアはソフィアにおいておこなった講演を収録したものが本書。ポスト・コロニアリズムの時代である現在において、「ナショナリズム」は過去の遺物であると同時に、そもそも「国民国家(ナショナル・ステイト)」なるものがいかに架空性の高い「物語」によって他者を排除し、その国民ですら抑圧するシステムとなっているか、という点をまず語る。そして「それを超克する出発点」としての比較文学を語る。自分のなかにある「母言語」が、他者のなかにある他言語と「等価である」「置き換え可能である」という想像力をもつこと──これによって、「ナショナリズム」の拘束を離れ、国境線を越えて、真なる相互理解と連帯による「市民国家(シチズン・ステイト)」というユートピアをこそ我々は目指すべきである......というのが本書の基調である。彼女の「サバルタン理論」への絶好の入門書ともなっている。
と、ここまで書いておいて申し訳ないが、スピヴァクを評するにおいて僕は適格者でない。また、当欄で突然スピヴァクというのも、奇妙なことだとも思う。しかし今日、日本の一部で猛威を振るう、以下のような言説にもしあなたが辟易しているのなら──もし「ほんのすこしでも」違和感があるのだったら──本書ほど効き目あらたかな特効薬となる一冊はないはずだ。こんな話を、口にする人がいる──古くから日本に住みつづけている日本人の両親から生まれた日本人にのみ「固有の」美意識と徳性がある。それは世界××大文明のひとつに数え上げられるほどの人類の至宝で、戦前まで、それはちゃんとあった。「個より公」を重んじる姿勢こそ日本人の倫理! ペリーの来航以来の百年戦争を日本は戦っただけなのだから、一度たりとも侵略などしていない! それどころか、「全有色人種の解放」を目指して、「白人国家」と義戦をたたかったのが輝ける「日本人の功績」なのであって、その証拠に、太平洋戦争で頑張る日本軍の姿に勇気づけられてアメリカの黒人は公民権運動をはじめた......いや笑ってはいけない。たぶん冗談ではない。藤原正彦という人が『日本人の誇り』という新書に書いているのだから。これは震災後に出版されて、30万部も売れているのだそうだ。
要するにスピヴァクの言う「民族主義的国民国家」なる悪性の妄想が、「いま現在においても」このように凝縮されて、大いに流布されている、その本家本元こそが日本なのだ、というおぞましい一例がこれだ。そして我々は、残念ながら、そんな妄想が深い地層を成す国土の上で、放射能まじりの空気を吸わされながら、かろうじてまだ生きている。一度たりとも「市民」による革命がなかった国における「国民国家」など、そもそもが語義矛盾でしかない。トップダウンで押し付けられた「国民」性の珍妙なる実例のひとつが、「サムライの遺伝子」だろう。封建時代、日本人の8割は農民だった。だからそんな遺伝子、大多数の日本人にはなんの関係もない。サッカーや野球のナショナル・チームは「サムライ・ジャパン」ではなく、正しくは「百姓ジャパン」であるべきだ。明治維新など今日の「菅おろし」や民自の足のひっぱり合い程度の話で、そもそも庶民とは関係ない。関係ある事例としては、維新後に庶民が「サムライの幻想」に自己投影することを許されたかわりに、兵役や税金を課せられるようになっただけの話。いま現在、「がんばろう日本」の掛け声のもと、便乗増税がおこなわれようとしていることと、なんら変わりはない。どちらもそれは、ずいぶんとひどい取り引きだ。
か細い希望は、少女時代の熱烈なファンのなかにあるのかもしれない。洋画や海外のレコードや、ペーパーバックに耽溺している層にあるのかもしれない。それがなぜ「希望」となり得るのか──スピヴァクが本書で解説してくれているのは、そういうことだ。
text:Daisuke Kawasaki(Beikoku-Ongaku)
「ナショナリズムと想像力」
ガヤトリ・C・スピヴァク著
鈴木英明 ・訳
(青土社)
1,680円[税込]