12 10/11 UPDATE
本欄執筆の時点での片岡義男の最新著作が本書である。ちなみに、著者は今年、写真集(『この夢の出来ばえ』)、自伝的エッセイと論考(『言葉を生きる』)、短篇小説集(『恋愛は小説か』)の三作をこれまでに発表している。また、以前ここで紹介した小西康陽との共著(『僕らのヒットパレード』)も今年の作だし、佐藤秀明の写真集『カイマナヒラ』では写真キュレーションとメモワールを寄稿......と、大車輪の働きぶりがつづいているのだが、なかでも、現時点では本書の人気がひときわ目立っているように感じる。
本書はエッセイ集だ。出版元による紹介文が素晴らしいので、ここにそのまま引いておこう。「街を歩く、街で食べる/タンメンと青春/銭湯の後の餃子/トマトを食べにハワイへ/美味しい街と味の本」──つまり、そういう内容だ。食にまつわるエッセイ、著者が「人の世の中」でなにか飲食することについてのエッセイが、ここに集められている。2009年から昨年いっぱいまで雑誌に発表されたものの数々と、書き下ろしの2篇が収録されている。
片岡義男のエッセイはとても人気が高い。彼の小説よりも、エッセイのほうが好きなんです、という声を聞いたことも、すくなからず僕にはある。にもかかわらず、片岡義男本人のこんな発言を僕は耳にしたことがある。「エッセイを書くのは、好きではない」と彼は言うのだった。それを聞いた僕は、もちろん突っ込んだ。「だって、いっぱい書いているじゃないですか?」と。ええ、書いてますよ、と片岡義男は認めた。しかし、と彼はつづけた。エッセイを書くのは、小説などに比べると自発的で自由なものではなく、あたかも課題作文を書いているような気分になるのです、と。とはいえ、それならそれで、そうした作業に向かう際に、自分なりの打開策というか、ティップスがあるのだ、と彼は言うのだった。それがなにかと言うと──「簡単ですよ。ストーリーにしてしまえばいい」
おわかりだろうか? 片岡義男のエッセイが、なぜこれほどまでに多くの人々の心を吸引するのか、その秘密の一端がここにある。エッセイ執筆に際しての彼の考えかたがユニークであるゆえ、当然そこには、ユニークな作品が生まれるのである。日本には、エッセイと称して、だらだらと日々の身辺雑記を書くだけの作家が多い。今日は晴れただの、なにを食べただの、ときに時事放談なども混じり、どれほど好意的に見ても「やりすぎのファン・サービス」としか僕には見えないものが、多い。じゃなければ、メディア上という公共の場を占有しての自慢話、といった程度の代物だろうか。端的に言って、自我のありようと、その提示のしかたに根本的な欠陥があるとしか思えない。「そうした代物」と、片岡義男のエッセイ・スタイルとの共通点は、おそらく一点しかない。文中の「僕(あるいは私、俺)」といった一人称が著者本人のそれである、という了承事項、このひとつだけで、そこから先は「一般的な作家のエッセイ」と、片岡義男のそれは、一から万事、なにからなにまで違う。つまり、片岡義男の「自我のありよう」と「その提示のしかた」が、「日本語を使う」ごく標準的なその他大勢の作家とは根本的に全然違うのだ、ということが、あからさまに表に出ているのが彼のエッセイ作品なのだ、ということが言える。
片岡義男のエッセイとは、こうだ──。どこまでが嘘か本当か。それにしてもこの「僕」というのは、格好よすぎるのではないか? あるいは、これはのべつまくなしに真顔で冗談を言っているのか? こんなよく出来た話を、この「僕」は本当に体験したのか?――いや、それが本当だろうが、そうでなかろうが、どうでもいい。「本当だったら、いいよなあ」と思えるようなことであれば、それでいいじゃないか......僕にとっての、片岡義男エッセイの読み味というのは、およそこんなものだ。エッセイという「著者本人(にごく近いと思われる)ペルソナが主人公となったストーリー」、おそらくは虚実ないまぜなのだろうそのお話が「あったらいいよなあ」に結実するところ。これこそが「片岡節」なのである。「あったらいいよなあ」と思わせられるだけの筆致と筆力、それこそが、余人をもって代え難き「至芸」なのである。
彼のエッセイを呼んでいて、ときに僕は感極まってしまうことすらある。本作で言えば、書き下ろしの一篇「コーヒーに向けてまっ逆さま」がそれにあたる。若き日の著者が、作家の田中小実昌氏とともに過ごした一夜が描写されているのだが、読んでいて僕は涙腺が決壊しそうになった。自分自身について、いまだ腰の定まらない青二才、あるいは役立たずのちんぴらである、と、ほんのすこしでも感じている人だったら、この一篇から僕と似たような効果を得るのではないか。同時に思うのが、これほどの長きキャリアを築き上げたうえで、こんな一篇をさらりと放ってしまえる、片岡義男という人物の特質への驚嘆の念だ。ちんぴらと呼んで失礼なのだったら、街のあんちゃんとでも言おうか。あらゆる権威に対して、まるでそんなものがこの世にあることすら気がついていないかのような、不遜かつとぼけた表情のもと、自らの歩調で悠々と街を闊歩してゆくその様子こそ、前述の「本当だったら、いいよなあ」へとつながっていく出発点なのだろうと僕は思う。
日本には「私小説」という、日本にしかない形式の小説があるそうだ。それが純文学の本道である、そうだ。であるなら、片岡義男のエッセイの小気味よさは、もしかしたら、この特徴的な語りの口調によって「ありとあらゆる私小説」を無価値化するようなところにあるのではないか──といま思ったのだが、そもそも僕は私小説になんの興味もないので、これは間違っているかもしれない(言い過ぎかもしれない)。
しかし言い過ぎではなく、片岡義男という大宇宙は、「日本語を駆使しながら」彼以外の日本語文学とはべつの位相にパラレル・ワールドを形づくろうとするものなのだ。本書における、きわめて「小説的」なエッセイのすぐ隣の車線で並走する位置に、必殺の「カタオカ評論」がある。そしてそれら全部を包括するものとして、彼の小説がある。片岡義男の「あったらいいよなあ」イズムは、もちろん、彼の大宇宙の隅々にまで行き渡っている。今年このあとは、著者の伝家の宝刀のひとつ「英語と日本語の比較研究」本の最新作(『日本語と英語――その違いを楽しむ』)をリリース、さらなる短篇小説集も準備中だという。パラレル・ワールドは日々強化されつつある。なんとも胸躍る話ではないか。
text: Daisuke Kawasaki (Beikoku-Ongaku)
「洋食屋から歩いて5分」
片岡義男・著
(東京書籍)
1,365円[税込]