honeyee.com|Web Magazine「ハニカム」

Mail News

終末の思想

終末の思想

野坂昭如による「消えていく日本」への挽歌、あるいは人類讃歌

13 4/22 UPDATE

読み手を選ぶ本だろう。読んで気分が悪くなる人もいるはずだ。たとえば、終末を想像したくないような人は、本書を手に取るべきではない。日本という国家、そこで暮らす人々、人々が育んできた文化、つまりは民族というもの、それら一切合切が「まもなく滅ぶ」との直感のもと、著者が「お悔やみを申し上げる」というのが本書の基調となっている。

著者・野坂昭如について、なにを言えばいいだろうか。大作家であり、戦後闇市派の筆頭であり、元祖プレイボーイであり、つねに繁栄のなかの影について、虚飾の奥に潜む滅亡の予兆について目を凝らしてきた作家が彼だった。03年に脳梗塞を患われてからこっち、新著の発表は減っていただけに、ここでの書き下ろし文の多さとその熱量には感動を禁じ得ない。まさに渾身と呼ぶべき筆を奮って「いまだ生あるもの」へ伝える必要があることを、迸るがままに綴ったものが本書である。

書き下ろしのパート、ここがまず素晴らしい(一章~四章、八章)。檄文と呼ぶべき熱さで、あの独特の読点使いで、「日本がいかに滅びるか」が語られていく。「農」を失ったことが滅亡の原因だと著者は言う。第二次大戦後、GHQによる農地改革からすでに「農の失墜」は始まっていて、戦後60年以上をかけて痩せ細り、TPPで息の根を止められる、という分析だ。農が死んだ国は死ぬ。であるから大半の人は餓死するしかない。食料品を買うカネもなくなるのは時間の問題だ。だからそれに備えていなければならない......という論がまず示される。

では具体的にこれからどうなるのか、というと、「先の大戦」での体験が掘り起こされる。つまり『火垂るの墓』の原点ともなった、食うものもない困窮のなかで著者が幼い妹を亡くしたという体験だ。理不尽な理由で始まったそれを、最も理不尽な立場で「逃げることもできずに」体験させられたのが彼らの世代だった。そして、そう、70年代になると、野坂昭如はグラサン姿でテレビに出ては「マリリン・モンロー・ノー・リターン」を歌っていた。「黒の舟歌」もあった。そんな彼が、晩年になってまだこんなことを言わねばならない「日本」がいまここにある、とは、それはいかなる気分がするものなのか? ただひとつだけ僕にわかることは、日本国の政府というもの、官僚システムというもの、アカデミズムと呼ばれるものすべては、ずいぶんむかしから今日に至るまで一貫して、一顧だにする価値もない、ということだけだ。

書き下ろし以外の原稿も収録されている。過去に発表されたもので、本書のテーマ(滅亡)に近しい内容を持つものが集められている。「また原発事故は起こる」「滅びの予兆はあった」「上手に死ぬことを考える」「安楽死は最高の老人福祉である」などがそれだ。なかでも「滅びの~」の章にある、95年6月に発表された「都知事としての三島由紀夫」という節は秀逸だ。このときの本当の知事は「ミ」シマユキオではなく、「アオ」シマユキオだった。しかし作家の想像力は飛翔する。オウム事件の直後に、こんなことを書く。

「三島さんは、聖戦におくれ、ハルマゲドン妄想に対するには早くに亡くなられた。三島さんが自分の軍隊を率い、上九一色村を攻撃する「妄想」の二乗を眠れぬ夜、追っている」

そして我々はもう知っている。野坂昭如の妄想ほどの面白味はないが、都知事となったとある老作家がスーパー極右を気取って中国を挑発したことを。また同時に、政界から言論界、市井の声に至るまで、どこをどう見ても極右と右翼ばかりがこの狭い島国のなかを我が世の春よと跳梁跋扈していることを。「芋ガソリンでも皇国不敗を信じていた」──これは本書の小見出しのひとつだ。そんなことを繰り返したがるような「国柄」やら「思想」やらがあるとしたら、それが正気の沙汰であるはずがない。続くわけがない。

ときどき僕は思う。我々は引き延ばされた4日間のなかにいるのだと。1945年8月6日になっても戦争は終わらなかった。そして8月9日があって、ようやく「帝国」はポツダム宣言を受諾した。この4日間のなかに僕らはいる。いつかそれは終わる。本書で述べられているように、日本がなくなってしまったとしても、みんなそれぞれ勝手に、ひとりの人間として強く生き抜いていけばいい──著者が本当に伝えたかったことはこれではないか。ゆえに本書は「消えていく日本」への挽歌であり、同時に(まことに辛口ながら)裸の人間を鼓舞するための人類讃歌なのではないか、と僕には思えるのだ。

text: Daisuke Kawasaki (Beikoku-Ongaku)

「終末の思想」
野坂昭如・著
(NHK出版新書)
735円[税込]