13 7/09 UPDATE
82年のオリジナル版発行時から数えて、累計で100万部を突破したそうだ。この部数、僕は少ないと思う。3,000万部程度は売れるべきだ。文字どおりの意味で、一家に一冊、あるべき本だろう。今回の軽装版は、税込で525円。この値段で、このような体裁で、日本国憲法を手元に置いておけるというのは、悪くない。
が、そんな状況は終わりを告げるのだろう。なぜならば、ここに記載されている憲法は「まもなく」見るも無惨に改変されてしまう可能性が高いからだ。そうなったら、本書も絶版となってしまうのだろう。いまのうちに買っておいたほうがいい。
本書は、まずその発行時にセンセーションを巻き起こした。日本国憲法を「とっつきやすく」読者に提示しようとした、その姿勢が賞賛された。「この親しみやすさ、ポップさこそ、日本国憲法にふさわしいものだ」として、本書はヒットした。いまはなき、雑誌『写楽』編集部が腕によりをかけたディレクションが「斬新で、とてもいい」とされた。
たとえば、条文の内容と呼応する形で挿入される、宇宙そのほかの見開き写真群。ドット柄の表紙──これはつまり、日の丸もいっぱい並べたらかわいいですね、というアイデアの披露だ。視点を変えてみることへの誘いだ──こうした点も、大いに話題となった。YMOがまだ現役だった82年とは、そんな精神性がごく当たり前に人々のあいだで共有されていた時代だった。
といった外観の本書において、もちろん、最大のポイントは「憲法がわかりやすい」ことだ。大きな活字で、ルビや注釈も豊富に記載された憲法の全文は、きわめて「わかりやすい」。巻末には日本国憲法の英訳文と、比較対象としての明治憲法(大日本帝国憲法)も付録的に掲載されている。
本書に収録されている現行の憲法を変えるのかどうか、いろいろな意見がある。聞くに値しないものも多い。立憲主義の概念どころか、ジョン・ロックの自然権の概念も知らない──わけはないから──意図的に「無視」することを画策した憲法草案など、一笑に付すだけの価値もない。これが大手を振って提案されたこと自体が主権者を愚弄するものなのだが、現行の「日本国憲法」を読みこなすところから始めないかぎり、どこがどう「馬鹿にされている」のかすらよくわからない。主権者側が現行憲法の価値を十全に理解していないかぎり、対抗措置をとることもできない。
大日本帝国が、現在の日本国になった瞬間がいつなのか、だれも知らない。しかし明らかに「帝国はもうない」と証明できるもののひとつが、いまの憲法だ。「これしかない」のだ。アメリカにおける独立宣言、フランスの人権宣言のような、「その国家が存在する理由」および「目指していく理想」が記された神聖なる文章を、戦後の「日本国」は持たない。あるとすれば、憲法の前文しかない。「しかない」のだから、軽々に「変える」「変えない」などという議論を、できるものではない。もしアメリカが独立宣言を棄てたら、どうなるか? フランスが人権宣言を棄てたら?──考えてみるまでもなく、それらは僕らが知るアメリカやフランスとは似ても似つかない、奇怪な怪物めいた国家となるはずだ。
日本国憲法の前文を、読んだことがあるだろうか? 僕はこれを何度読んでも、腹の底から震えが湧いてくる。およそ日本語で書かれた文章のなかで、最上級の一群の、その最高の孤峰にて屹立する、真の意味での名文がこれだと僕は考える。
独立宣言も人権宣言も、日本国憲法の前文も、理想を掲げたものだ。理想なのだから、「いまの」現実に合わなくても、それで当たり前だ。「現実にない」からこその「理想」なのだから、「これから」実現しようと努力すればいい──であるにも関わらず「現実に即して」憲法を変えたい、などとという情動は、これはどこから出てくるものなのか? 自衛隊がもし違憲ならば、いつの日にかなくしてしまえばいい。いつの日にか、世界中から軍隊がなくなってしまえばいい。これが日本国憲法が理想として掲げたことであり、ジョン・レノンが「イマジン」のなかで歌ったことでもある。それほどの宝を、日本人は捨てるのだろうか?
この憲法を掲げた、徹底的な平和主義の日本が終わる日が来ることを、僕は望まない。理想とは、人を獣から遠ざけ得る道のひとつだと信じるからだ。
text: Daisuke Kawasaki (Beikoku-Ongaku)
「軽装版 日本国憲法」
(小学館)
525円[税込]