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雑誌『POPEYE』に掲載されていた連載コラムがまとめられたものだ。帯には「これは『服』の皮をかぶった『経済』の本だ!!」(田原総一朗)とあるのだが、それは言い過ぎだ。いくら拡大解釈しても、どのような経済活動にも行き着くことがない、きわめてパーソナルな行為をこそ、その人物の内面に寄り添いながら見ていこう、というのがコンセプトだったのではないか。そのときの観察の方法は、日本で言われるところの考現学のありかたに準拠している。つまり「人の洋服の着こなし」を見にいく、というフィールドワークから、「その人はなぜそのように着るのか」を考察する、という思考の流れを、著者の一人称的なエッセイ風にまとめ上げた読み物がこれだ。また、帯には「アン・ファショニスタ」のもとを訪ね歩く、とあるのだが――ひどい言葉だが、これはたぶん――「自分のことを『ファッショナブルではない』と規定している人」を意味しているようだ。だから「お洒落な人にその秘訣を聞きにいく」という、よくある企画の逆を突いているとも言えるのだろう。
取り上げられている人物は、ファッション・デザイナーの山縣良和はいるものの、基本的には有名・無名を問わず、著者のアンテナに引っかかった人がピックアップされている。僕が興味ぶかかったのは、古着屋経営者・小泉壱徳、猟師の千松信也、工務店社長・山野潤一、それぞれの着こなしおよびその説明だった。ちなみに各人の章題は順に「~のゴミから生まれる経済圏を知る」「~と鹿を捌き、『しっくりいく』生き方を考える」「~に『人間になる道』を教えてもらう」だった。
今日の同誌は、どうやらファッション誌として理解するのが正しいようだ。ならばこの連載は、たとえば原宿のキャットストリートのあたりに、ブランド古着を買い取っては販売する店舗が、新品をあつかっている店舗にまぎれて点在している様子とよく似ている。そして、いちど「再流通」に入ってしまったそれらのモノが、自由気ままに「再消費」されていく様は、ときに面白くも見える――というのは、ちょうどマックルモア&ライアン・ルイス「スリフト・ショップ」のPVが流行した理由と同じだ。あれと本書が大いに違うところは、やはり「ここが日本だ」ということだろうか。
元来、日本人の、とくに男性の洋服に対する興味と執着は、まさにオブセッションと呼ぶ以外ないものだった。おそらくその出どころは、明治期にまで遡るのだろう。西洋文化が流入してきたときに、「洋装できちんとしていないと野蛮人と思われてしまう」という心理的恐慌状態にとらわれて、それがそのままずっと尾を引いてきたのだろう。かれこれ二千年ほどのあいだ、ボタンもレースアップ・シューズも思いつかず、日常的に使うことなど考えもしなかった民族が、「それを導入しなければいけなくなった」ときのショックが、あっという間の近代化、つまり「和魂」はそのままでの「洋才」化という無茶へと突っ走らせることになったのが、明治の文明開化だった。しかるに本書では、「そこが壊れている」人の事例が、老若男女数多く出てくる、とも言える。洋服の着こなしが「普通にありがちなものではない」ということは、日本においては、そういう意味にならざるを得ない。だから近代ではなく、近世ですらなく、中世や古代にまで、意識の面では到達すらしているかもしれないほどの、ある意味での自由さが局所的に吹き出しているのがいまの日本なのだ、と理解するべきなのかもしれない。どこかに歴史的な曲がり角があったとするならば、「曲がることに失敗してしまった」あとの証拠の一端が拾い集められているのが本書、なのかもしれない。
また本書では、各人物ごとに、著者の手によるイラストが寄せられて、そこで解説が試みられている。この絵が味わいがあっていい。本書と同様の趣旨で、絵とキャプションだけで一冊にするというアイデアがあってもよかったのではないか。米欧で受けるかもしれない、とも思ったのだが、どうだろうか。
text: DAISUKE KAWASAKI (Beikoku-Ongaku)
「ズームイン、服!」 (POPEYE Books)
坂口恭平・著
マガジンハウス
1,620円[税込]