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物語と挿絵で楽しむ 聖書

物語と挿絵で楽しむ 聖書

イラストがフルカラーで展開。
見て楽しく、きわめて「わかりやすい」聖書の物語。

16 8/29 UPDATE

本当はできれば12歳になる前に、日本語版はもとより、あと少なくとも英語版で、旧約・新約両方の聖書を通読しておくべきだと僕は考える。その体験そのもの、あるいは記憶のどこかに残った記述の断片が、その後のあなたの人生の最大の財産のひとつとなるはずだ......とは思うのだが、しかし一方、現実には僕も、(英語だけならいざ知らず)そんな人には会ったことがない。

だからこその、この一冊なのだ。全304ページで、旧約・新約両聖書のなかにある、おもだった「物語」のあらすじ、その印象的なところを、まるごと摂取してしまえる、というお得な書籍だ。「天地創造」が、見開きでわかる。「ノアの箱舟」だって、「バベルの塔」だって、「最後の晩餐」だって、基本「見開き」だ。二段組みの簡潔な記述と、そして、なんと言っても、宇野亞喜良さんのイラストがフルカラーで展開されている!のだから、豪華と言うほかない。見て楽しく、きわめて「わかりやすい」そんな一冊だ。

第一部では旧約聖書が語られる。章立ては5つ。「天地創造とエデンの園」から「預言者と義者たちの物語」まで。第二部は新約聖書で2章。「イエスの生涯」と「弟子たちの宣教」となる。それぞれ、要所にて解説コラムが入るのも嬉しい。「イスラエル、ヘブライ、ユダヤの違い」とか、「旧約聖書の外典・偽典」とか、いい角度から「解説」が入ってくる。というわけでつまり「すらすらと聖書の『物語』が頭に入ってくる」ことになる。あなたが漫画家、小説家志望だったら、なにはなくとも絶対に読むべき一冊だろう。なぜならば、今日の我々が属する、西側の資本主義社会における「物語」の、ほとんどすべての大本は、この二冊の「聖書」のなかに「もともと」あったものなのだから。アメドラ・ファンも、読まないではいられないはずだ。「聖書の反映」がないアメドラなんて、ほとんど語義矛盾のように「あり得ない」ものだからだ。

さらに言うと、地球上の人類居住地の大半を占めるエリアにおける一般的なモラル、真善美のすべて、人間という存在が今日にまで至る文明を発展させるにあたって、「それ以前」の段階で背負わざるを得なかった、宇宙と生命の関係性の認識方法の根本もまた、これらの書物のなかにあった。いや「聖書のなかにしか」なかった。だからキリスト教社会は他の文明圏よりも先んじて自己変革し、文明を進化させていくことが可能となった。ここに加えるとしたらクルアーン(コーラン)があるだけだ。しかしこうした歴史的事実から、とくに日本人は目を背ける傾向が強い。だから文学が痩せ細り、映画も作れなくなってしまった。

たとえば、近ごろとみに(急に)話題となることがある「天賦人権説」という日本の言葉の意味が僕はよくわからない。福沢諭吉による「訳語」だそうだが(本当に?)、この言葉の原典となる外国語のものを、僕は知らない。おそらくは、だれか(福沢?)が、トマス・ホッブズの「自然権(Natural Rights)」あたりか、あるいはジョン・ロックの所有権の理論なんかを「意訳」しようとして失敗した(か、わざと「自分に都合よく曲解しようとして」捏造した)、例によってまた「日本にしかない」奇妙なニセ訳語であり、奇矯な概念がこれなのではないか? なぜならば「天が与えなければ『人権はない』」なんて概念、中世以降の人類世界に「あることのほうがおかしい」からだ。しかも、それすらも「制限できる」こともあるなんて、意味がまったくわからない。わかって言ってるのか? 一度この言葉、だれか僕に原典を指し示しつつ、英語で説明してほしい(できるわけがないだろうが)。
 
といった、このような「錯誤」が往々にして起きてしまう原因は、発語したその人が「聖書をきちんと読んでいない」からだ。キリスト教の文明のありかたを理解できていないと、ホッブスもロックもルソーも、その肝心のところがわからない、からだ。だから平気で誤解する(もしくは、「好きなように」誤読する)。あろうことか「一神教は偉そうで嫌いだ。日本にはこの地に特有の八百万の神々がいて......」なんて言い出す人すらいるらしい。そんなのは、どこをとっても一切「日本特有」じゃない。多神教も自然崇拝のアニミズムも、世界中のあらゆる文明圏に「かつては」普通にあったものだ。どこにだって「天地創造神話」があったように......さらにまた、自国の(自らの民族の)「それ」だけが他に優越しているのだ、「我々」だけが神に選ばれているのだ、という驕った想念も、これもまた「古代からどこにでもある」ありきたりな思い込みでしかない。だから日本が「驚くほど古くさい」文明のなかにいる、ということだけは間違いない。中世どころか、この面だけで言うと、おそらく古代に属するほどの感覚と言ってもいい。

そして、きわめて広範囲に多種多様な文化圏で、ときには暴力的に「古い神々」をリプレイスしていったのが、これら「2つの聖書」に端を発する文明だったことは、いまさら僕がここで言うまでもない。「ひとつの絶対的なる神」と、いち個人としての自分が、まさに一対一で「契約」をしていくこと――これが「聖書」から発生した文明の基本だ。だから、この契約の「つぎなる段階」として、先述の自然権の発想が生まれてくることにもなる。なぜならば、王や政府、あるいは教会や神父、教皇であったとしても、それらはすべて「便宜的に」世にあるだけのものだからだ。ただひとつの「絶対的な」関係とは、神と自分のあいだに「だけ」あるのだから.....この認識こそが、すべての知性のベースとなる。「たったひとりで」世界の全体と向き合う、足場そのものとなる。だから、「ここから」すさまじく大量の科学、学術や芸術が育まれていった。もちろん近代文学もロックも、すべては「ここ」から始まった。

ちなみに僕は、なんの宗教も一切信仰してはいない。これまでも信仰しなかったし、これからもないだろう。ただ僕には、聖書がある社会から発展してきた文明と文化のお陰で、どうにかこうにか、今日まで生き延びてこられた、という強い自覚はある。だからきっと、僕同様に、こうした「物語」が人生の役に立つ、そんな人もいるのではないか、と想像する。あなたがもしそんな人だったら、本書は入り口として最適の一冊となるはずだ。

text: DAISUKE KAWASAKI (Beikoku-Ongaku)

「物語と挿絵で楽しむ 聖書」
古川順弘・著 宇野亞喜良・イラスト
(ナツメ社)
1,500円[税抜]