honeyee.com|Web Magazine「ハニカム」

Mail News

桃(タオ)さんのしあわせ

桃(タオ)さんのしあわせ

長年仕えてきたメイドと雇い主の息子の間で結ばれる、親子のような絆を描く人間ドラマ

12 11/02 UPDATE

1980年代初頭、香港に新風が巻き起こった。TV局で斬新なドラマ群を作っていた監督や俳優たちが次々とスクリーンに進出、彼らを中心とした若手クリエイターたちがマンネリに陥っていた映画界に尋常ではない刺激を与えたのだ。いわゆる「香港ニュー・ウェイヴ」である。徐克(ツイ・ハーク)、譚家明(パトリック・タム)、嚴浩(イム・ホー)、林嶺東(リンゴ・ラム)、爾冬陞(イー・トンシン)、呉宇森(ジョン・ウー)......。そんな作家陣の紅一点であり、もっとも硬派な作風で異彩を放ったのが許鞍華(アン・ホイ)だ。

ヴェトナム戦争後の情勢を背景にした『獣たちの熱い夜/ある帰還兵の記録』('81)、『望郷/ボートピープル』('82)。日本人を母に持つ許鞍華の自伝的物語『客途秋恨』('90)......。ま、ジャンルにこだわらず、アクションものに武侠もの、ホラーにサスペンスと何でもありの監督ではあって、正直なところ出来不出来も激しいのだが、その「出来」にあたるものはやはり、市井のできごとに題材を求めた、一見地味なものほど多いように思う。

そんな彼女の代表作と位置づけられる『望郷/ボートピープル』で映画デビューしたのが当時20歳の劉徳華=アンディ・ラウだった。今や亜州屈指の大スターである彼が、久方ぶりに許鞍華と組んだのがこの作品なのだ。アンディ・ラウといえば、彼が率いる映画製作会社「フォーカス・フィルムズ」はたいそう志が高く、とりわけ2005年の「フォーカス・ファーストカット」プロジェクトはアジア圏各国の才気あふれる新鋭たち(必ずしもエンタテインメント精神に長けた者ばかりではない)に長編新作を撮らせる、という実験的かつチャレンジングな試みで今なお強烈に記憶に残る。

本作もまたフォーカス・フィルムズの作品。アクションも恋愛もない地味な人間ドラマだ。しかし中国語圏内で異例の大ヒットを記録しただけではなく、ヴェネツィア映画祭では葉徳嫻=ディニー・イップが主演女優賞を獲得。そう、どんな文化圏に属していようが理解できる、親身で純粋な心の通い合いがここには描かれている。

アンディが演じるのは香港の敏腕映画プロデューサー、ロジャー。仕事柄、大陸や外国に出張することが多い彼の留守中を守っているのは、60年間梁家に仕えてきた大陸出身のハウスメイド、桃(タオ)さん(ディニー・イップ)だ。家に戻ってくれば当たり前のようにロジャー好みの食事が用意されている。ロジャーもそれを当たり前のように受け入れる。それに感謝することもないが別に低く見ているわけでもない。幼少期からずっと一緒の桃さんは、親以上に「居て当たり前」の存在なのだ。

ある日、桃さんが脳卒中で倒れる。左半身に麻痺が残るからメイドを辞して老人ホームに入る、という彼女の希望を受けいれる。香港の介護事情は複雑で困り果てるが、偶然出会った旧知の男"バッタ"(アンソニー・ウォン)の計らいでいいところが手配できた。

だが、身の回りのことを桃さんに任せっぱなしにしていたロジャーは、家事にしても何ひとつできない独身男であるのを思い知る。たちまち彼を襲う"桃さんの不在"の事実。今はサンフランシスコに移住している実母よりも、桃さんは身近でかけがえのない人だった! 忙しい仕事の合間を縫って、ロジャーは老人ホームに通いはじめる。一緒に暮らしていたときよりもずっと親密な関係性が生まれ、濃密な心のつながりが露わになっていく。

実はこの話、本作のプロデューサーであるロジャー・リーの個人的な体験に基づくものらしい。ロジャー・リーはかつて、老人介護問題を扱った許鞍華作品『女人、四十。』('95)の製作を務めた人物だが、許鞍華のフィルモグラフィからみれば本作は、その『女人、四十。』あたりからはじまる「老い」と「家族」をテーマにした作品系列に加わるものだろう(もっとも『女人〜』以外、すべて日本では映画祭公開のみだが)。なかでも、おばさんと高校生の息子の日常を、観察者の視点で淡々と描きつつ微塵も飽きさせない傑作『生きていく日々』('08)と直接結びつくタッチがある。

実に感動的な作品ではあるし、本国では「催涙映画」とも呼ばれたようだが、いやいや、許鞍華はお涙頂戴を周到に避けている。ユー・リクウァイのドキュメンタリ的、というよりは窃視的なキャメラ、長短調を自在に操作する懐かしやロウ・ウィンファイの音楽がセンチメンタリズムに耽溺しまいとする絶妙の手綱捌きをみせているのだ。

さらに楽しいのが、ニュー・ウェイヴ時代と前後する、香港映画黄金期を彩った映画人の大挙出演。香港の映画仲間として登場するツイ・ハーク、サモ・ハン。桃さん役のディニー・イップも彼らと同じアンディより一世代上のニュー・ウェイヴ世代で、かつて何度か母子役で共演した仲である。さらにいえば、桃さんと同じ老人ホームの入居者で、実にいい味を見せるスーダラ爺さん役チョン・プイは、爾冬陞の異父兄である。

ロジャーが桃さんを連れて行く新作完成披露のシーンでは、ゴールデン・ハーヴェスト社総帥レイモンド・チョウや'80年代にコメディ・リリーフとして活躍したジョン・シャムが本人として出演。と同時に、桃さんに煙草の吸い過ぎを注意されるのは中国若手監督の旗手、ニン・ハオだったりする。これはつまり、ロジャーの新作が大陸マーケットを意識した"中国香港映画"であるという至極当然の事実を意味してもいるのだろう。

しかも、ニン・ハオのブレイク作『クレイジー・ストーン/翡翠狂騒曲』('06)は、前述「フォーカス・ファーストカット」の一本。新しい香港映画のあり方を模索しつつも、自らのキャリアのスタートとなった香港ニュー・ウェイヴ時代の終焉を慈しむかのようなアンディ・ラウの目がここにある。

text: Milkman Saito

監督・脚本:スーザン・チャン
キャスト:デニー・イップ、アンディ・ラウ、チン・ハイルー、チョン・プイ
英題:A Simple Life
製作年:2011年
製作国:中国・香港
上映時間:1時間19分
配給:ツイン

全国順次ロードショー中

http://taosan.net/

© Bona Entertainment Co. Ltd.