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教師と教え子の物語は、これまでも幾度となくとりあげられてきたテーマだ。『いまを生きる』(89年)のように、破天荒なやり方の先生ロビン・ウィリアムズが、ほかの教師や保護者からは疎まれながらも、生徒たちには熱烈に支持されるカリスマ性を持ったり、免許がないのに、その場しのぎで偶然音楽を教えることになった青年が、子どもにロックの面白さを覚醒させる『スクール・オブ・ロック』(03年)のような映画もあった。やはり教育者には〈導く能力〉が必要であって、何かしら生徒に人生の喜びを開花させることが、教育ドラマの真髄だ。
しかし、本作は違う。この映画を見ていると、とある恐ろしいことに気づく。教師を主人公とした映画なら、知らず知らずのうちに〈教える能力がある〉ことを前提として見てしまっている。だが、そんな線引きはそもそもこの世には存在しないのだ。もし鬼教師といわれる人が、生まれつき完璧主義者であるために、生徒に無理強いをしているだけだったら? 優れた生徒を輩出するのも、たまたまそのしごきに耐えられた産物であり、教師自身は自分の利己主義を満たしたいだけで、生徒の能力を伸ばすことなど微塵も考えていなかったらどうだろうか。たとえ教師が生徒の未来のためなど一切考えていなくとも、優秀な生徒を世に送り出せば、そのひとは「良い教師」と呼ばれるだろう。実際、ある意味その通りなのだが、本作を見るとその境目の曖昧さに足を取られる気分になる。
ジャズドラマーを夢見て、名門のシェイファー音楽院に入学したニーマン(マイルズ・テラー)は、フレッチャー教授(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。そこで成功すればプロのドラマーになれるのは必至だ。喜んだニーマンだったが、そこから地獄の猛レッスンが始まる。他のドラマー志望の生徒は全員ライバルであり、フレッチャーはわざと彼らの競争心をこれみよがしに煽る。飴と鞭の使い分け方も陰湿で、練習の激しさにニーマンは私生活を削り、人間らしい生活は一切送れなくなっていく。見ているだけで胃液がこみあげてくるようなストレスと、スティックが血まみれになり、疲労を重ねてもそれが上達の証とはならない果ての無さに呆然としてしまう。
ニーマンがフレッチャーの鬼のような猛特訓に耐えて食らいついていく姿も、徐々に正気の沙汰ではなくなってくる。彼がフェスティバルに不可抗力で遅刻しそうになる場面の、グラつくカメラワークも、ニーマンの疾走したい心に体が追い付かない焦燥そのものを表す。フレッチャーも不条理なまでに厳しいが、それに牙をむいて叫び、受けて立とうとするニーマンも、相応に狂気を生まれ持った人間だ。
この映画は、教師と生徒が才能を育むような、いい話ではない。人格破綻者と人格破綻者が偶然出くわし、互いの我(が)を狂気のレベルで戦わせるうちに、未曽有の世界に到達する物語である。そしてこんな人格者から程遠い者たちが、憎悪の応酬によって恍惚とするまでの高みに至るドラマが撮れるアメリカの映画界は、なんと人間の奥深さを受容していることかと、感嘆してしまう。
text: Yaeko Mana
『セッション』
監督:デイミアン・チャゼル
製作:ジェイソン・ブラム/ヘレン・エスタブルック/ミシェル・リトバク/デビッド・ランカスター
キャスト:マイルズ・テラー/J・K・シモンズ/メリッサ・ブノワ/ポール・ライザー/オースティン・ストウェル
配給:ギャガ
2015年4月17日(金)より、TOHOシネマズ 新宿他全国ロードショー
http://session.gaga.ne.jp/
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