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THINK PIECE

Tommy Guerrero
Live your life on your own term

トミー・ゲレロという生き方。

12 11/13 UP

photo: Testuro Sato (live), Claudine Gossett (portrait) text:Kunichi Nomura

1980年代から現在に至るまで、スケートボーダー/ミュージシャンとして
ストリートカルチャーシーンにおいて圧倒的な人気を誇るカリスマ、トミー・ゲレロ。
ニュー・アルバム『No Mans Land』のリリース・ツアー、
またかつてトミーが在籍したスケーターチームを題材にした映画『ボーンズ・ブリゲート』の完成を記念して来日した際、
彼の盟友でもある野村訓市がインタビューを敢行。
信念を貫き通し、常に自分らしく生きるトミーの人生観に迫る。

 

──
今回のインタビューでは、新譜のことや映画『ボーンズ・ブリゲード』の話も聞きたいと思っているのですが、多分同じ話を大分していると思うので自身の人生や、その人生観についても聞いてみたいのですが。
「違う質問というのは大賛成なんだけど、なかなか難しいテーマだね(笑)。理想の人生についてだったらすぐ答えられるけど。多分スペイン、それもバルセロナにでも住んで音楽だけを演奏して暮らすってことかな。あの街の人達は人生を、毎日を楽しんで生きているように見えるから」
──
トミーの人生を語る上でスケートボードというものが全ての元になっていると思うのですが、スケートを最初にした日のことを覚えてますか?
「もちろん覚えてるよ。『Future Primitive』(パウエルがBones Brigadeをフューチャーし、80年代にリリースしたスケートビデオ)に出てきた坂のシーンを覚えてる?」
──
『ボーンズ・ブリゲード』にも出てくる印象的なシーンですよね、トミーが坂を滑り降りていくところ。
「そう、あれは17アヴェニューにある坂なんだけど、あの坂こそ俺が生まれ育った家があった場所なんだ。近所の友達が丁度スケートを手に入れたんだけど、好きじゃなかったみたいですぐ俺にくれたんだ。子供っていうのは誰だって坂を目にすればそこを下りたいって思うものだろ(笑)。そうやって滑ったのが俺の最初のスケート体験だった。9歳の時さ」
──
ダウンヒルマスター、トミーを生んだのは環境だったと。
「その通り! 俺のスケート人生は坂で始まったんだ。ただ最初のボードは、坂でコケた時そのまますっ飛んで車に轢かれてまっ二つになった、坂は危ないんだ(笑)。落ち込んだよ。俺の家は決して裕福でもなかったから、新しいボードなんて買う余裕がないのを子供の俺でも分かっていたからね。ただ落ち込む俺を見た母さんが、何とか工面して俺に新しいボードを買ってくれたんだ」
──
どんな板だったかまだ覚えていますか?
「ファイバーグラス製のボードでサーファーの絵が一面に描かれているものだった。まだサーフィンとの関係性が強い頃だったからね。エクスキャリバートラックにどこのウィールがついてたんだっけな。もっといいものが販売されてはいたんだけど、どこで売っているかもわからない時代だった。スケード専門店なんてものはなくて、俺は自転車屋に行ってそこで売っているものを買ったんだ」

 

──
そこからトミーのスケート人生が始まったんですね?
「ぁ。自分の板を手に入れて以来、兄貴と一緒にひたすら毎日滑っていたよ。スケートだけだった。俺は自転車すら持っていなかったし、とにかく何も持っちゃいなかった。スケートが俺に初めて何かに熱中するということを与えてくれたんだよ。学校でのスポーツも一切やらなかったしね。俺は何をするにもいつも小さかったし、何より一人が好きだったんだ」
──
一匹狼のような子供だったと?
「かもね。俺はただボードを持って街を滑るのが好きだったんだ。それをするのに必要なものなど何一つない、ボードさえあれば誰でもできる、それがストリートスケートのいい所さ」
──
プロになったきっかけは?
「シスコの郊外にあるアラミダに76年だったかな、スケートパークが出来たんだ。そこに出かけるようになって年上のスケーター達と出会うようになった。それで最初はA LOT-A-FLEXというチームで滑るようになって小さなコンテストに出るようになったのさ。当時貰ったトロフィーをまだ持ってあるよ(笑)高さを競うジャンプコンテストや距離を競うジャンプコンテストなんてのもあった。それ以外だととにかくシスコの街を滑ってたんだ。あそこの道にGAPがあると聞けばそこまで行って滑ったりね。あとはBMXにも途中からハマってよく乗ってたよ」

──
トミーがBMX?
「トリックも沢山できたんだぜ(笑)。当時は両方やる奴も多かったからね。SE Racing のP.K.Ripper に乗ってた。Curb Dogsっていう名のチームも持っていた位さ。そうこうしているうちに82年だったか、雑誌のスラッシャーが主催で初めてのストリートスタイルと銘打った大会がゴールデンゲート公園で開かれたんだ。プロ、アマ混在の大会で、バンクがあり、ストリートジャンプにハーフパイプもあるコースで、そこで俺が優勝したんだ。誰も予想だにしてない結果だったよ。ジェイ・アダムスやクリスチャン・ホソイ、ニール・ブレンダーなんかも出ていたからね」
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そんな猛者達の中でトミーが優勝したことでパウエルから声がかかったんですか?
「その前にマドリッドというチームに所属していたんだ。そこにいたトム・グロホスキーというスケーターと仲が良かったから。1年位いたかな。一番最初にスラッシャーの表紙になったときはマドリッドの板にパウエルのフリースタイル用のウィール付けたよ、そういえば(笑)。パウエルから声がかかったのは二回目のスラッシャーのコンテストの時で、その時俺は2位になったんだけど、ステイシーが見に来てくれていて晴れてボーンズ・ブリゲードの一員になったんだ。パウエル初のストリートスケートのプロとしてね。当時ストリートのプロといえば俺とマーク・ゴンザレスしかいない、そんな時代だった」
──
そこからトミーの歴史が表舞台にでるようになったと。その後のことは『ボーンズ・ブリゲード』の映画を見ればわかるということですよね(笑)
「そう(笑)。見てもらえればわかると思う。映画は素晴らしいものになったと思うよ。ボーンズ・ブリゲードはスケーターにとっては夢のチームだったんだ。本当に才能のあるスケーター達だけが集まったね。自分がそのチームの一員だったということは誇りでもあるし、今回映画を見て当時を思い出した時には、何だか自分の人生の一部だったのが信じられないような気分にさえなったよ(笑)。映画を見に来たオールドスクールのスケーター達は皆泣いてたな」