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THINK PIECE

DIMITRI FROM PARIS

ディミトリ・フロム・パリスの過去と未来。

13 4/23 UP

photo: Yayoi Arimoto text: Tetsuya Suzuki

パリのクラブシーンを聡明期から築き上げてきた、フランスを代表するDJ/プロデューサーの一人、DIMITRI FROM PARIS。
長きに渡り世界中をツアーしながら若い世代へと自分の音楽性、そしてクラブカルチャーを伝導し続けている彼。
20年近いキャリアを持ちながら今なお支持され続けるディミトリのルーツ、そして知られざる日本との関係性に迫る。

 

──
ディミトリさんは非常に長い間シーンのフロントラインで活躍されていますが、一つのジャンルに固執せず常にフレッシュでいるために意識されていることはありますか?
「私が意識しているのは非常にシンプルで、他のDJとは違う存在であり続けるということです。昔からそうなのですが、私がやっていることに近いことをする人が出てきたら、私はそれとは違うことを始めるようにしています。私の仕事の仕方というより性格なのかもしれませんが、オーディエンスが期待していることをしたくないのです。期待に全く応えないというのではなく、彼らの想像していること以上のものを与えること。それが私のスタイルですね」
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そもそもディミトリさんが音楽にのめり込むようになった頃はどんなものを聴いていたのですか?
「一番最初の音楽体験は両親が持っていたクラシックのレコードですね。静かで、美しいハーモニー、そして非常に洗練された音楽です。当時の私にとってそういった音楽はつまらないと感じていましたし、あまり好きではなかったのですが、その体験が今の私のレイドバックしたDJスタイルに影響を与えていると思います。自分自身で音楽を買ったのは映画のサウンドトラックですね。幼い頃、毎週のように母と祖母に映画館に連れて行ってもらっていて、私はその音楽に興味を持ったのです。70年代の中頃だったのですが、当時の映画音楽はブレイクビーツもあればオーケストラもあって、そこで様々な音楽に出会いました。一番好きだったのが“ミッション・イン・ポッシブル”や“ダーティー・ハリー”の音楽を手がけたのがラロ・シフリンという作曲家です。彼の音楽はクラシックをポップにアレンジした、洗練されたオケにブレイクビーツを合わせるというスタイルで、私にはとても刺激的でした。それから“007”シリーズのジョン・バリーも。ラロ・シフリンよりもポップな曲調が大好きでした。
ポップ音楽で言えばポール・マッカートニーのWingsというディスコテイストなバンドを好きになり、その後は様々な音楽を自分なりに掘り進めていきました。当時からフランス人の多くはロックが好きでしたが、私は人とは違うものを聴いていたかったので、ジャズやフュージョンに近いソウルや、映画のサウンドトラックを聴いていたのです。自分の部屋でDJの真似事をするようになった頃には、ヒップホップやレア・グルーヴ、そしてハウスを聴くようになっていましたね。“NEW YORK CITY RAP”というイベントでGrand Mixer DXTやAfrika Bambaataaといったアーティストがプレイしているのを観て、DJに興味を持ったのです」
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その時点から将来は音楽に関係する仕事に就こうと考えていたのですか?
「音楽で生計を立てるのは不可能だと思っていましたから、あくまでも趣味として考えていました。高校卒業後は大学で日本語を勉強すると決めていましたし、その後は観光の仕事をしようと考えていたのです。それに私は楽器ができなかったので、まさか自分が音楽を演奏する側になるとは思ってもいませんでした」

 

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なぜ日本に興味を持ったのですか?
「もともと日本のポップカルチャーが好きだったのです。パリにある日本の本屋に毎日通って、そこに置いてあった雑誌や漫画のカバーを眺めていました。もちろん内容は分からなかったのですが、そのダイナミックなグラフィックデザインやヴィヴィッドなカラーに惹かれたのです。それに当時、“UFOロボ グレンダイザー”というアニメがフランスで放映されていて、多くのフランス人がそれをきっかけに日本の文化に興味を持つようになったのです」
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DJとしてのキャリアはどのようにステップアップしていったのですか?
「83年頃、当時の大統領が国民にプライベートなラジオステーションを持つことを許可してから、数多くの局が生まれました。そこで私は自分のミックステープを各地に送るようになり、徐々に各ラジオ局で自分のミックスがオンエアされるようになったのです。最終的には毎週土曜にフランスで一番大きいラジオステーションで番組を担当するようになり、音楽が仕事になったのです」

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クラブでのDJはいつから始めたのですか?
「18歳か19歳の頃、数ヶ月の間クラブでDJの仕事をしたのですが、当時のフランスにはまだクラブカルチャーというものが存在しておらず、私の音楽は全く理解されませんでした。一方で、ラジオでは自分の好きなように音楽をプレイすることができていたので、トニー・ハンフリーズのようなラジオDJになることを決めたのです。ある時、番組のスポンサーだったNintendoが日本行きのチケットを賞品にしたゲーム・コンテストを開催したのですが、私はどうしても日本に行きたかったので、日本語が話せると嘘をついて優勝者と一緒に日本に連れて行ってもらったのです(笑)。ちょうどスーパーファミコンが発売になった年で、私の長年の夢が叶った時ですね。そして日本に滞在中、GOLDというクラブで日本のDJカルチャーを体感して、自分もクラブDJとしてやってみたいという希望を持ったのです。その数ヶ月後、Tokyo bayfmのプロデューサーが“おフランス・ナイト”というイベントで私を招待してくれて、ゴールドでDJをすることができました。当時はまだディミトリ・フロム・パリという名前ですらなかった頃のことですね」
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当時のフランスにはクラブカルチャー自体が存在していなかったのですね。
「いわゆるクラブDJといえば、私とRLP、そしてロラン・ガルニエの3人しかいませんでした。RLPは世界的には全くの無名ですが、フランスのクラブシーンのパイオニアであり、ラリー・レヴァンと同様、初めてのハウスDJだったのです。実際、彼にフックアップされたことをきっかけに私のキャリアも上がっていきました。当時のフランスのクラブといえばル・バロンのようなファッショナブルな社交場と、コマーシャルなクラブの2種類しかなかったのです」