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THINK PIECE

GREAT3「愛の関係」

活動休止・新メンバー加入を経て発表された、新生GREAT3の傑作アルバム。

14 4/22 UP

photo: Shoichi Kajino
interview: Tetsuya Suzuki

95年にメジャーデビューを果たし、2004年の活動休止までに7枚のオリジナルアルバムと13枚のシングルを発表。
普遍と革新を併せ持ったサウンドと独自のリリックで、絶大な支持を得るバンドGREAT3。
2012年の活動を再開後、23歳の若きベーシストjanが加入した新生GREAT3が、ニューアルバム「愛の関係」をリリースした。
発売後間もなく、各方面から傑作と呼び声の高い本作を、フロントマンの片寄明人が語る。

 

──
1年4ヶ月ぶりとなるニューアルバムですが、大好評のようですね。
「周りのミュージシャンや関係者も含めて、こんなに褒められたことがないくらい好評をいただいて、自分でも戸惑っているくらいです(笑)。自分ではいつも頑張っているつもりなのですが、それこそ普段あまり褒めてくれないような人達からもメールをいただいたり、驚くばかりの反響でありがたいですね」
──
GREAT3はデビュー当時からポピュラリティのあるロックでありながら、どこかヒネリがあって、趣味性が高いバンドだと感じていました。
「自分では特に意識していないのですが、音楽にしても他のジャンルにしても、基本的にハードコアというか、狂ったものが好きなんですよ。ただ、同時に綺麗なメロディが好きという面もあるので、それがポピュラリティという部分に繋がり、ある程度大衆とリンクできてメジャーでデビューできたのかなと思います。それこそ前身バンドのロッテンハッツの時代はMr.Children、GREAT3になった時はウルフルズなんかが同期でいて、一緒に音楽誌に取り上げてもらったりもしていました。その後、彼らがミリオンヒットを連発する中、僕達はずっとマイペースに活動してきました(笑)」

──
そういったバンドと比べられることに対して反抗心もあったのではないですか?
「若い頃にそれがなかったと言えば嘘になりますね。でも同時にリスペクトもしていますし、音楽的にも素晴らしいバンドだなと思っていました。なので、反抗心というよりも、自分の綺麗なメロディの裏にあるものを理解してほしいという気持ちがあったんだと思います」
──
大衆的なヒットばかりを目指すことによって、自分たちのコアの部分を誤解されてしまうのではないかという危惧はありましたか?
「特にロッテンハッツの時はそういう思いをしましたね。当時、僕以外のメンバーはもともとワウワウヒッピーズというサイケデリックバンドのメンバーだったりして、いわゆるネオGS/ガレージシーンから出てきた連中の集まりだったんです。それがカントリー、ジャグバンド的な音楽をやるところにひねった面白さがあったと思うのですが、メジャーでは全く理解されず、地方にライヴに行けばキャンプファイヤーのセットが組んであるというような状況でした(笑)。明るく楽しいロックバンドというように捉えられてしまったことへの危惧感、反抗心はありましたね」

 

──
90年代は日本の音楽史の中でもあらゆる意味で優れたバンドが多く輩出されていた時代で、その中で自分たちのアイデンティティを守りながら、あるいは確認しながら活動していたのがGREAT3だったのかなと思います。
「おっしゃる通りだと思います。90年代前半、フリッパーズ・ギター以降の10年は本当に面白いバンドがたくさんいて、それぞれが皆と違うことをやってやろうという気持ちに溢れていた時代でした。僕にも、前のアルバムと違うことをやろうという気持ちは常にありましたね。その時のメンバーは今でもプレーヤーとして、もしくはプロデューサーとして何らかの形で今の音楽シーンにおいても重要な位置にいますし、やはり90年代は特殊な時代だったんだと思います。たまに当時のことについて話すことがあるのですが、やはり幼少期にYMOの洗礼を受けているという影響は大きいような気がします。小学生くらいの時にYMOのアルバムを買って、はじめは理解できなくても好きになれるまでとにかく聴きまくるという経験が皆にあって、無意識下だったとしてもそこで音楽的な素養を養ったんじゃないかと。普段耳にするアイドルの曲にしたって、作曲は大瀧詠一さんや佐野元春さんだったりして、良質な音楽が日常に溢れている時代に育ったんですよね」
──
ライバル達と切磋琢磨していた時代を経て、新生GREAT3になった現在、音楽業界も大きく変化したことで制作に対する意識は変わりましたか?
「正直な話、制作費の面では90年代の3分の1ぐらいにまで下がっています。それこそ当時の僕は、スタジオに入ることにお金がかかっていることを知らなかったくらいで(笑)。ただ逆に、今は色んな意味で制作をすることにシビアになることができていますし、自分にとっては良いことだと思っています。またそれを乗り越えているからこそ、予算管理を含めたプロデュースの仕事もできるようになりました。2000年に僕はソロアルバムを作るためにシカゴに行ったのですが、そこで共に過ごした、僕らなんかよりもずっとポピュラリティのある

人達がローディーも付けずにツアーを周ったり、一物販のことまで一つつ話し合ったりしている姿を見ていたので、その段階で既に僕の中での意識は変わっていたんです。だからその後に業界の環境は厳しくなったことには、わりと適応できたタイプなんですよ」
──
制作的にも業界的にも、周りを気にせずより正直に自分達の音楽を作ることができる環境として捉えられるようになったということでしょうか?
「まさにその通りですね。新生GREAT3になってからは外を見ている余裕がないというほどに、自分が今やるべきことをやりたいと思うようになりました。それから40歳を過ぎた頃から、プロデュースをしたフジファブリックの志村君や一緒にレコーディングをしたレイハラカミさんといったミュージシャンから、昔からの友人達まで、仲間を亡くすことが本当に多くて、長生きするということはこういうことなんだと実感したんです。それは裏を返せば、自分もいつこの世を去ることになるか分からないということで、死というものを強烈に意識すると人から何を言われようとどうでも良くなるんですよね。それよりも、命がある中で表現できることを考えて、それをやり尽くして、この世を去りたいと。極端な話ですけれど(笑)。そういった思いは前作から今作まで、通じている部分ですね」