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THINK PIECE

MASANOBU SUGATSUKE

急速に加速する「中身化する社会」の未来像

13 7/18 UP

photo: Kentaro Matsumoto interview & text: Tetsuya Suzuki, Madoka Hattori

 

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名前が世にでていくということは、ストレスやプレッシャーとの戦いでもあるわけですよね。幸せも不幸せも、個人の気の持ちようではあると思うのですが、一般にステレオタイプな“幸福”というのは匿名的な生き方を前提しているところもあるわけです。もっとも、その“幸福”というのは、テレビのような旧型のメディアが作った幻想のストーリーであり、言ってみれば“産業化された幸せ”なわけですが。
「そのとおりですね。高度経済成長期において、幸せの基準というのは、買い物リストだったわけです。“車を買いました、幸福度何ポイントです。家を買いました、何ポイント追加です”と明確な買い物リスト=幸福度ランキング・リストがあった。それに向かっていれば大量消費社会が要求する“普通の幸せ”が手に入ったんです。でも低成長時代になり、その買い物リストが魅力的に見えなくなってしまった。また普通の人というのが社会や組織において以前ほど必要とされなくなっている。今、多くの職場で“あなたは何のスペシャリストですか?”と問われる。普通の仕事は、コンピューターによって効率化され、さらに発展途上国などにアウトソーシング出来るようになったので、先進国ではプロフェッショナリズムを提示しないと組織の中で生きていけないんです」

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中身化した社会において、プロフェッショナリズムとは、テクニックやスキルはもちろん、マインドの部分も問われてくるではないでしょうか。職業=菅付雅信であれば、1年365日、24時間、プロである。プロの定義が変わってきますよね。仕事とプライベートの境をなくすという単純なことではなく、プライベートであるはずの時間に何かをみつけ、むしろ自分でつくってしまうくらいの力量が問われている。それはどんな職業でも、会社員でもあてはまりますよね。
「まさに。大企業にいようが中小企業にいようがフリーであろうが、プロフェッショナルであることを今まで以上に問われている。かつては普通の人のスキルを積み上げることで、年功序列で、課長になり部長になりという会社の中でのポジションが見えていた。でも今は、そういう組織的なヒエラルキーのポジションよりも個人的で専門的なプロフェッショナルであることを要求される。そういった状況では“幸せになる買い物リスト”にこだわることは、意味がなくなってしまうんですよね」
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単純に給料があがらない低成長時代に入ったともいえる。そんな時代では、どんなライフスタイルを送りたいのか、自分という人間が、どのように評価されたいのか、というのがより複雑かつ個人的になっていく。一般的な成功というのが存在しづらいからです。稼いでいる金額、資産の有無ではなく、名誉や尊敬を集めることの方を重視する人たちが増えてくるのも自然なことでしょう。
「頑張って中古マンションを買って、次に郊外に一戸建てを買う、といった願望実現モデルがもう成り立たない。そもそも、家を買うという価値観が世界的に見ても若い人たちは疑問をもっている。次は車ですが、車よりも自転車のほうがいい、またはシェアやレンタルでいいという若い人が増えている。そしてファッションへの願望もなくなりつつある。消費への願望が減少した今、その欲求は食に向かっていると思います」

 

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ファッションにおいては、ブランドビジネスの加速化、拡大化が、“本来はそれを必要としない人”にまで売りはじめたということに尽きると思う。まあ、家や車もそうです。ただ一方で、本当にそのブランドの服を必要としている人、デザイナーのクリエイションを理解し、共感する人もいる。その意味では消費が本質化しているとも言えます。
「ラグジュアリー・ブランドの最後の方法論として、ロゴを露骨に出さずにクオリティが高く、ある一つの美意識で作られているディスクリート(控えめ)・ラグジュアリーがトレンドになっていますよね。ラグジュアリーの消費も、見栄や一過性の流行から実質的で控えめになっているわけです。ファッションがなくなるのではなく、“それを持っていないとマズイ、流行っているから手にしよう”という強迫観念はかなりなくなると思います」
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ファッションが好き、というときのその“好き”というのは、その価値を本質的に理解していることだと思うのです。そういう人は引き続きファッションにお金を使うと思いますが。
「生き方に合っているかどうかが評価基準になるのではないでしょうか。今は消費よりも、自分らしい生き方のほうが大切なわけです。欲しいモノはいくらあったとしても、人々は自分の生き方に本当に必要かどうかを問い直している。そしてその人の消費行動が、その人自身にあっているかどうか、ソーシャルメディアの力で他人から見えやすくなってしまっている。コレは合っていないな、無理しているな、というのも見えてしまう。あなたはどういった生き方としているのか。自分にとって、誰と付き合うのか、何が必要なのかをはっきりさせなければいけない。息苦しいという人もいると思いますが、それは自分が何を欲しているかわかっていないからだと思います。自分ととことん向き合わないといけないので大変な時代だとは思いますが、ある意味では本質的でいい時代ですよ。中身化した社会では見栄を張る無駄がなくなり、悪くいえば地味で禁欲的な状態になるかもしれません」
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その「地味で禁欲的な時代」において、クリエイティブなモノは生まれるのでしょうか?
「もちろん、時代にあったクリエイションは生まれてくるはずです。本でも取り上げたシンガーのアデルは典型ですよね。とりたてて美人ではない彼女がここまでブレイクしているというのは、本質的だからだと思います。ファッションやインテリアも同じ。今求められているのは、80年代や90年代の煌びやかな派手さではなく、地味というか、ストイックで真面目なモノだと思います。実は、ある人からこの本は残酷だと言われました。ここに書かれている社会に適応できる人はなかなかいないと。しかし、こういう事例がすでに多数あり、社会にその要素がでてきている。早かれ遅かれ、社会は中身化せざるをえないのではと思います」
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中身とはコンテンツだと考えれば、コンテンツがいろんな人の手で完成されていく時代でもあると思います。いわば、「社会化する中身(コンテンツ)」になっていく、という言い方もできるかもしれません。例えば、この本も、あえて事例のみを提示して答えを出していない。新書というフォーマットは、わかりやすい答えやハウツーを求められると思うのですが。つまり、この本自体が同時代的なソーシャルを体現した“社会化した中身(コンテンツ)”なのである、というのはどうでしょう?
「そうですね。ディテールの積み上げることでしか、社会の大きな意識の変化を伝えられないんです。中身化する社会というタイトルから、人々が内側に籠っていくイメージがあるかもしれませんが、自分の中身を社会化しようという動きを伝えているつもりです。つまり個人が大きな社会的発言力と社会的ネットワークを持つ時代が到来したわけですから。個人が社会化することをしんどいと思う人もいれば、そこにモチベーションを感じる人もいる。しかしそこで、具体的に事細かくこうすれば幸せになるということを提示してしまうと、新たな“幸福リスト”ができてしまう。それでは、中身化する社会の本質を伝えきれない。どちらが正しい、正しくないではなく、あなたは中身を充実させ、それを社会化させる生き方と、今までどおりのイメージや見た目優先の生き方のどちらを選びますか? という問いを、この本では投げかけているんです」

 

「中身化する社会」 菅付雅信

講談社
861円[税込]
発売中
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