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DENKI GROOVE THE MOVIE? 〜石野卓球とピエール瀧〜

結成25年周年を迎えた電気グルーヴの歴史に大根仁が迫る。
貴重なライブ映像や関係者インタビューによるドキュメンタリー。

15 12/15 UP

interview: Tetsuya Suzuki
text: Ryu Nakaoka

先進的なダンスビートとポップな楽曲性、そして、異彩を放つパフォーマンスによって幅広い支持を獲得し、
日本の音楽シーンのメインストリームにテクノを浸透させた電気グルーヴ。メンバーの石野卓球はDJとして、
ピエール瀧は俳優としてそれぞれ個々で活躍しながら、結成から26年を経た今も電気グルーヴとして精力的に活動し、
進化し続けている。そんなバンドの歴史を、映画監督・大根仁がひとつの物語としてまとめあげた。
1989年の初ライブから現在に至るまでの映像資料と、二人を間近で見てきた関係者の証言からなるこの
ドキュメンタリーフィルムは、電気グルーヴの軌跡を鮮やかに描き出している。
自身も電気グルーヴファンである大根監督は、どのような視点で彼らを捉えたのか。

 

──
オファーを受けたのはどのような経緯だったのでしょうか。
「電気グルーヴは昔から好きでしたし、もともとメンバーとの面識もありました。マネージャーの方と仲が良くて、よく飲んだり遊んだりしていたんですが、その方に”仕事をお願いしたい”と呼び出されたんです。いくつか想定していましたが、その中で一番嫌な仕事でした(笑)」
──
どういったオファー内容でしたか。
「過去の映像を使って、ヒストリードキュメンタリーのようなかたちで電気グルーヴの映画をつくってほしいと言われました。メンバーが監督に僕を指名したとのことです」
──
電気グルーヴを好きになったきっかけは何でしょう。
「二人の存在はナゴムレコードのZIN-SÄY!時代から知っていました。電気グルーヴとしての初期からCDを買ってはいたんですが、“すごい”とはっきり思ったのは『VITAMIN』(93年)のときですね。映画の中でも触れましたが、日本のテクノシーンが開かれたっていう感触がありました」
──
このドキュメンタリーは、大根さんご自身がファンとして見てきた電気グルーヴのストーリーに沿ってつくられたのかな、と思いました。

大阪、十三ファンダンゴでの初ライブ(89年)

「僕が監督・構成していますから、もちろん自分視点ではありますが、いくつかフィルターはかけています。2014年のフジロックでのライブが素晴らしかったので、“これだけ長いキャリアがありながら今が一番すごい”と伝えるために、フジロックの映像にヒストリーを挟む構成にしています。その際、架空の電気グルーヴファンを想定しました。英語ナレーションにしたのもそれが理由です」
──
結成から25年以上の歴史、大量の映像素材を、バランスよく2時間にまとめ、ひとつの”物語”にしていると思いました。電気グルーヴファンの人ほど編集のスマートさ、鮮やかさに共感するのではないでしょうか。

 

「歴史の長いバンドなので、いろんなファンがいるじゃないですか。デビューから好きな人、『VITAMIN』(93年)や『DRAGON』(94年)あたりからの人、オールナイトニッポンを入り口にした人もいると思います。また、最近だったらピエール瀧という俳優がきっかけになったり、ロックフェスではじめて電気グルーヴを見てファンになったり、ということだってあるでしょう。そのため、電気グルーヴが好きな人に対して全方位で語るような作品として、どの時代のファンが見ても納得できるし、知らなかった側面を知ることができるようにしています。ただ、電気グルーヴがやってきたことの10%も切り取れたかわからないですね」
──
この映画を観たら、結成から山あり谷ありで、電気グルーヴって実は正統派の”ロックバンド”じゃないか、と思いました。
昔のロックバンドには、結成から解散するまでの成長ストーリーがありましたよね。ポイントになるアルバムやツアーがあって、事件や脱退劇、解散危機があって。ファンは音楽だけじゃなく、そのストーリーを共有することも含めて楽しんでいました。
「最初にお話をいただいたとき、電気グルーヴの毒の部分や笑いの部分もちりばめつつ、基本的には男前に作ろうと思ったんですよね。たしかにそれは、”ロックバンド的に”とも言い換えられるのかもしれません。過去の映像や、様々な人の証言の中に自分も知らなかったことがあって、びっくりしながら繋げていきました」
──
証言が物語を補足し、進行させているところもあると思います。コメンテーターの方々は主に大根さんがお選びになったんですか。

 

「電気グルーヴのオールナイトニッポン」収録風景(92年)

初開催のフジロックフェスティバルでのパフォーマンス(97年)

「僕と、最初にお話ししたマネージャーの方と二人で相談しながら決めました」
──
人選するにあたって、”この人は絶対に入れないといけない”、”この人にこのことを話してほしい”といった考えは。
「具体的にどのような話が出てくるかはわかりませんでしたが、”この年代はこの人が語れる”というイメージはありました。25年間の年表の中で、時期ごとに最もふさわしい人物を選んでいます。例えば、初期は当然ケラ(リーノ・サンドロヴィッチ)さんだろうし、まりん(砂原良徳)さん脱退まではご本人が一番語れるだろう、といったように。もちろん、いろんな切り口があるバンドなので、どのアングルから語るか、というところも選考の基準になりましたね」
──
メンバー本人のインタビューがないのは決まっていたことでしょうか。
「それが二人からの最初の条件です。”俺たちは関わらない”ってどういうことだ! と思いましたよ(笑)。ただ、あの二人から任せられることのプレッシャーはありましたね……。”出来上がってから文句を言う”って言われてましたからね(笑)」
──
電気グルーヴはビジュアル面やライブのタイトルなどで、自分たちの活動をコンセプチュアルに表現しています。音楽だけじゃなくマルチな才能を持ったアーティストであることへの緊張感はありましたか。