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鉄男/TETSUO THE IRON MAN

『鉄男』から『鉄男 THE BULLET MAN』までの軌跡

10 5/19 UP

text: Milkman Saito

海外映画祭における日本映画の位置づけを大きく変えたと言われる『鉄男』。
5月22日からは、待望の新作『 鉄男 THE BULLET MAN 』が満を持して公開される。
多くのカルトファンを熱狂させた『鉄男』、『鉄男II/BODY HAMMER』から、
再び世界にヴィジュアルショックを与えるであろう『 鉄男 THE BULLET MAN』までの軌跡を追った。

 

1989年、夏。

東京・中野武蔵野ホールに毎夜、鉄に全身を浸食された男の叫びと、メタリックな轟音が響き始めた。スクリーンではいったい何が起こっているのか、物語を理解するよりも先にギラギラと銀色に光るモノクロ映像が目を突き刺し脳内を掻き回す。観たことのない、感じたことのない映像。しかし、その感性は間違いなく時代の空気を衝いていた。観客の間にまさにカルト的な熱狂を巻き起こし、噂が噂を呼んで結局3カ月の超満員を続けることとなる。
その後,日本のみならず世界を席巻して数多くのフォロワーと「チルドレン」を生み出すことになる『鉄男』の誕生だ。

あれから21年。『鉄男II/BODY HAMMER』から数えても18年……今また『鉄男』は甦った。リメイク? いや、違う。前2作のテーマや要素を引き継ぎつつも、まさに2010年の映画として成立しているのだ。その第3弾『鉄男 THE BULLET MAN』公開を前に,今一度「鉄男」と、それを創造した男・塚本晋也の歴史を振り返るのも意味ないことではあるまい。

 

『鉄男』以前

実は第一作の『鉄男』以前に、“原型”ともいうべき2本の8mm映画がある。……あ、これについて語る前に、あらかじめ明確に意識しておかねばならないことがある。それは「塚本晋也は個人映画作家である」ということだ。

彼が自作において自ら冠する“肩書き”の多さは異様だ。「監督」「脚本」、それだけでなく「製作」「編集」。でもここまではまだ判る。撮影、美術、照明、特殊撮影、そして出演……。映像主義の映画作家には、作品のすべてを自分で司ろうとするヒトが多いけれども、それにしてもプロの世界でここまでのワンマンは珍しい。

しかし個人映画やアマチュア映画の世界では、これは当たり前のことである。中学時代から『鉄男』にとりかかる寸前までの14年間、塚本晋也は8mmフィルムで映画を作りつづけたが(アングラ演劇への傾斜と、CM演出家となったことによる中断はある)、基本的に彼の映画作りはその頃から変化してはいないのだ。もちろん作品規模の拡大により、スタッフもキャストもプロフェッショナルないしプロ予備軍との恊働製作となってはきたが、塚本晋也自身は「自分の作りたいものを作りたいように作る!」というスタンスだけは、アマチュア時代から微塵の揺らぎもないのである。
ところで、そうして作られた’86年の8mm映画が『普通サイズの怪人』だ。驚くべきことに、あまりにも『鉄男』そのまま。細部の設定は異なるものの全体的な展開もほぼ同じ(物語は後述)。主要登場人物……田口トモロヲ、塚本晋也、藤原京、叶岡伸の配役も含め,完全に「原型」である。

続いて撮り始められたキッチュでパンキッシュでセンチメンタルなSFドラマ『電柱小僧の冒険』(’87)は映画としてのエンタテインメント性を追求した、塚本曰く「ジェットコースター・ムービー」。これで彼はぴあフィルムフェスティバル(PFF)アワードのグランプリを獲得する。この2本で以後の塚本映画を象徴するスタイル……鋭角的・デザイン的なキャメラアングル、説明を排したドラマツルギー、そして疾走する物語と爆走するコマ撮りetc…はほぼ出そろったといってよい。そして人間と機械が融合するというモチーフも!

 

『鉄男』('89)

『電柱男の冒険』を撮り終えるや(もちろんPFFアワードの審査は1年以上後だから、それを待たずに)すぐさま塚本晋也が取りかかったのは、なんと『電柱男〜』の前作『普通サイズの怪人』のリメイクともいうべきものだった。ただしディテイルやプロットはより深く練りこんで。『電柱男〜』で達成したアマチュア映画の限界を踏み越えるべきものとして8mmではなく16mmで。銀色に鈍く光る「鉄」のイメージにフェティッシュなまでに徹底的にこだわって、カラーではなくモノクロで(この頃になるともうすでに、カラー・フィルムのほうがコスト安の時代だった)。

実は塚本晋也にとって、こうしたことが当初より極めて戦略的なものであったことを示すマニフェストが、スタッフのために、いやそれ以前に自分のために著わされていた。『鉄男』は最初期の段階から、すでにカルト映画となるべく計画され、創造されたのである!

映画はきちんと段階を追って進まない。物語は唐突に展開し、またその間にイメージなのか本筋なのか判然としない無数のショットが挟まれる。観客は圧倒的な密度を有したヴィジュアルの嵐と、金属音を多用した轟音を浴びつつ、脳内で物語を再構築するか、あるいはそれを投げ出して視覚的・生理的な快感に身を委ねるしかない。

しかし、なんとかハナシを整理すればこうなるだろう。……鉄フェチ男の“やつ”(塚本晋也)は自らの太腿に鉄のボルトを埋め込んで、あまりの痛さと快感に道を疾走している途中、クルマに轢かれてしまう。轢いたサラリーマン(田口トモロヲ)とその恋人(藤原京)は、頭蓋にその車の鉄片が突き刺さった“やつ”を森に運び、瀕死状態の“やつ”の前でなぜか欲情し、見せつけるようにセックスする。そのとき“やつ”にサイキックなパワーが芽生え、肉体と金属が融合しはじめた。“やつ”はサラリーマンに金属化の呪いを送り、まずは出勤途中の駅で隣に座った眼鏡の女(叶岡伸)を金属融合体にしてサラリーマンを襲わせる。やがて四畳半の自室に戻ったサラリーマンは、恋人の前で鉄化しはじめる。やがてペニスまで金属ドリルとなって恋人をえぐり殺すや、“やつ”がいよいよ登場。
超高速で街を疾走しつつ、ふたりの金属人間のサイキック・バトルが続く。“やつ”は轢かれた時の映像を何度も何度もサラリーマンにリピートして見せつける。同じ痛みを体感しながら闘ううち、両者は愛憎ともなんともつかぬものに包まれて一体化。「俺たちの愛情で世界中を燃え上がらせてやろうか!」と巨大な金属ペニスと化して、世界を破壊するべく驀進していく。

ムチャクチャである(笑)。しかし、「肉体と機械の融合」というプロットそのものにたまらなくエロティックなものを感じた観客は、おそらく相当多数に上ったはずなのだ。このころ人間と、人間とほとんど見分けのつかなくなったアンドロイドとの相克を描いた『ブレードランナー』があった。それ以前に同じリドリー・スコットが、エロティックなメカ人間の絵画で知られるH.R.ギーガーのスケッチを元に美術デザインした『エイリアン』があった。デイヴィッド・クローネンバーグはヴィデオ画像に仕組まれたパルスによって肉体と銃を融合させてしまう『ヴィデオドローム』を作った。大友克洋は『AKIRA』映画版で鉄雄(これは偶然の一致である)を巨大な鉄に変容させた。グレッグ・ベアは「ブラッド・ミュージック」で有機物無機物が一体化した地球を現出した。そしてウィリアム・ギブスンは『ブレードランナー』の世界観を借りながら、人間個々の脳とテクノロジーが融合する世界を「ニューロマンサー」で描き、“サイバーパンク”という新しいSFジャンルを確立した。

世界は「肉体と機械の融合」というイメージに、まさに欲情していたのだ。『鉄男』もまたそのエロティックなうねりの中で生まれ、そのうねりに敏感に反応した観客たちを、理屈や辻褄など吹っ飛ばしつつ、眼や耳という感覚器械から浸食していったのだといえる。

ちなみに当時、パンク・バンド「ガガーリン」「ばちかぶり」でのハプニング的なステージングで好奇の目を集めていた田口トモロヲ(実はミュージシャンであること以前に、アングラ演劇の俳優だったのだが)は、これ一作で映画俳優の道を歩み始めることになったのはご存知のとおり。