08 8/25 UP
Text:Mayumi Horiguchi Photo:Shoichi Kajino
もちろん、東京を訪れた経験は持っていたカラックスだが、その理由は「映画のプロモーションのため」で、彼の母国=フランスでもブームとなっている、マンガやアニメといったおたく文化や、キュートなジャパニーズ・ポップ・カルチャーについては、まったく知らないようだ。パレ・ド・トーキョーという名の美術館も、パリにはあるのに?!
そういうことは、何も知らないよ。僕が知っているのは、パリとかニューヨーク、あとは少しだけロシアのこととかぐらいだよ。東京には住んだこともないし、カルチャーについてもあまり知らない」
そもそも意外なことに、今作は「日本や東京をテーマにした映画ではない」と、カラックスは強調する。
「もちろん、多少東京に対するディテールは入れてあるが、これは日本や東京についての映画ではないんだ。この映画は、いわば笑いをとる笑劇=ファルス(注;観客を楽しませることを目的とした、演劇または映画のために書かれた喜劇の一形態。ヴォードヴィルと並んで、最も低級なものと言われる。道化芝居とも訳される)のようなものだ。だからわざと、日本に対する紋切り型のイメージを多用した。ファルスは、日本における狂言みたいなもので、古典的なものだ。笑いの裏に、グロテスクで政治的なテーマを抱えている。今回、モンスターを登場させた理由は、怪物は社会現象を浮き立たせるものだと思ったからさ。劇中に下水が出てくるが、下水とは、過去の記憶の中から何かが出てくるということのメタファーだ。日本の過去の記憶と言えば、南京大虐殺や靖国問題、絞首刑などが挙げられる。たとえ日本のことを良く知らない人でも、これらに関しては“日本の歴史における、大変苦しい部分”として、とても良く記憶している。だから、日本の痛みを伴う過去を引き出すような内容に仕立てたんだ」
今作の真のテーマは、“自分と他者”だという。では、カラックスにとっての他者とは、いったい何者なのか?
「メルドが劇中で発するセリフが、それを端的に物語っていると思う──『私の神は、いつも私が憎んでいる人たちのもとに、私を置いておく』というのがそれだ。他者との関係は、複雑なものだと思う。地下からモンスターが出てきて、みんなを殺すというアイデアは、パリで思いついたんだが、他人と僕の関係には、ちょっとそういうところがある。怪物は私の中にもいる。メルドは私であると言える。その一方で、私はジギルであり、メルドはハイドであるとも言える。いわゆる“善人と悪人”としてのジギルとハイドを、道徳的な意味で解釈するということも当然可能だが、むしろ、原始的な面と文明化した面という意味での“人間の二面性”をあらわすものとして、解釈して欲しい。私たちは、共に、原始的な面と文明化した面の2つを持っているという意味でね。メルドはまた、『私は人間は嫌いだ。でも人生は好きなんだよ、ばーか』というセリフも吐くが、人生とはイコール他者でもある。そういう意味で、他者との関係というのは、両義的/両面的なものだと思う」
カラックスの分身とも言えるメルドを演じているのは、カラックスの長編デビュー作である『ボーイ・ミーツ・ガール』に主演し、以後も『汚れた血』、『ポンヌフの恋人』と、いわゆる“アレックス三部作”にすべて主演したドゥニ・ラヴァンだ。そんなラヴァンを、今作でも起用した理由は、やはり世間一般で言われているように、彼が「カラックスの分身」だからなのか? と聞いてみたところ「そんなことは知らない」と小さな声でささやかに反撃(?)された。とにかく、この二人がタッグを組むのは、実に16年ぶりだ。何をきっかけとして、彼の主演が実現したのだろう?