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THINK PIECE

CONTROL

ジョン・ティヴィジョンを「伝説」から解き放つ、イアン・カーティスの「物語」。

08 3/10 UP

70年代末にマンチェスターのソルフォードにて結成されたジョイ・ディヴィジョン。活動期間は短いものの、後の音楽シーンに大きな影響を与えた彼らが、歴史にその名を刻むまでを振り返る。

text by Mayumi Horiguchi

『コントロール』の監督であるアントン・コービンは、「これはジョイ・ディヴィジョンの映画ではない。ラブ・ストーリーだ」と語った。が、イアン・カーティスはジョイ・ディヴィジョンという希有なバンドのヴォーカリストなのだ。そしてだからこそ、この映画が好きなのだ! と声高に叫びたい。

ジョイ・ディヴィジョンは1970年代末にマンチェスターのソルフォードにて結成されたバンド。バズコックスのピート・シェリーとハワード・デヴォートの主催で、1976年6月4日にマンチェスターのフリー・トレード・ホールで行われた、観客数わずか42人のセックス・ピストルズのライブ。この日が、“伝説”の始まりだった。このライブに衝撃を受けたバーナード・サムナーとピーター・フックはバンド結成を決意し、ヴォーカリストとしてイアンが参加することとなる。後にスティーヴン・モリスがドラムスとして定着。スティッフ・キトゥンズ、ワルシャワと、次々にバンド名を変えた後、イアンの発案により、ナチス・ドイツの将校用慰安所を意味するジョイ・ディヴィジョンが、正式にバンド名となる。

結成のきっかけがピストルズだった、ということからも分かるが、彼らはまさに“パンク・バンド”だ。昨今では、シド・ヴィシャスのような服装をしていること=パンクだと誤解されがちだが、音楽界におけるパンクを指す場合には、その“精神性”が重要視される。そしてジョイ・ディヴィジョンは、そういう意味で、完璧なパンク・バンドとしてスタートした。

少年時代のイアンのアイドルは、イギー・ポップとデヴィッド・ボウイ。そしてその少年は後に、ボウイが夢みていたという〈ストゥジーズとクラフトワークの融合〉した音楽を創造することとなる。ジョイ・ディヴィジョンはまさに、新たなロックの一幕を開けたバンドとして、歴史にその名を刻んだのだ。

お世辞にも上手いとは言えない演奏によるサウンドは、ミニマルなマイナー・コードが印象的。これにのって歌われるイアンの手による歌詞。それはあまりにもダウナーだ。絶望的で暗く、混沌としている。いや、単に歌詞の問題ではない。サウンドと詩、さらにはジャケットの耽美的なアート・ワークまでもが一体となり、混沌/混乱/狂気的な情熱が入り交じった挙げ句、あまりにもダイレクトに、こちらに響いてくるのだ。当時、東洋の島国に住む英語の不自由なティーンエイジャーだった私の心をゆさぶったのも、だからこそなのだろう。通っていた中学校には誰もジョイ・ディヴィジョンを知っている人はいなかったけれど、そんな風にして彼らは、あらゆる国の、同じような感覚を共有していた人々の間に、まるで伝染病のように、その影響力を増大させていったのだ。

余談だが、イアンの首吊り自殺後、残されたメンバーたちにより結成されたニュー・オーダーの名曲「ブルー・マンデー」。DJによるダンス・チューンの定番として、21世紀になってもかかりまくるこの曲は、イアン・カーティスが自殺した時の心境を描こうとしたものとされている。