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THINK PIECE

STREET WEAR HISTORY

カルチャーの番人"ロジャー・K・バートン"が語る、
ブリティッシュ・ユース・ファッションの歴史

08 11/5 UP

Text:Andrew Bunney Translation:Mayumi Horiguchi

テディ・ボーイ(40年代後半〜50年代)
これは、上流階級を真似ることを望んでいた、労働者階級によるルックだ。多くのテディ・ボーイズはニュー・エドワーディアンにかなり似通っていたが、のちに、更に極端になっていった。イースト・エンドのキッズがハンティング・ピンクス(註9)を身につけ、めちゃくちゃな破壊行動におよび、ダンスホールに赴き、そこに残骸を残したという話がいっぱい残っている。初期のテディ・ガールズは、それ以降のロックンロールが流行した時代に比べると、かなりシックな感じだ。
註9:ハンティング・ピンクス……正式なハンティング時に着用される赤いコート。たびたび「スカーレッツ」または「ピンクス」と呼ばれる。アメリカ独立戦争時の1783年以後に、大量の素材を仕入れたピンクという名前のロンドンの仕立て屋が名前の由来とされる。以後、ハンティングの時の正装として、ポピュラーなものとなった。

 

ビートニク(50年代後期)
これはあまり、ファッションというものじゃなかった。どちらかといえば、アンチ・ファッションだね。抗議するためのアウトフィットだ。
左 :
何らかの理由があって、とても反合成的な感じ。基本的に、彼らは陸軍や海軍の店で買い物をしていた。だから、元々は海軍の制服だったダッフル・ジャケット、同じく元海軍のベレー帽、船員が着ていたダッフルコート、歴史的に、大都市に住む下層階級や非国教徒と関連が深かったボーダーTシャツなんかを身につけていた。たくさんの羊毛、ツイード、綿が使われており、実用的な衣服だ。コーデュロイは、非常にポピュラーだった。
右 :
女の子たちは、まさにジュリエット・グレコがしていたようなルックそのものといった感じさ──タイツ、フラット・シューズに、わざといい加減に着こなした、だらしない、薄汚れたセーター。昔ソーホーに「ヘヴン&ヘル」というクラブがあり、ここはビートニクご用達のクラブだった。僕が映画『ビギナーズ』(ジュリアン・テンプル監督作)の仕事を手掛けていた時、当時このクラブにたむろっていた人々にインタビューをしたんだけど、骸骨模様が編み込みされたセーターを着ている女の子がいたんだ。主に色は黒で、元々は軍モノのセーターなんだけど染めてあって、Vネックを後ろ前に着たり、タートルネックとか──とても陸軍のサープラスっぽい「シック」さ。

 

ロッカーズ(50年代後期)
すべての金をバイクにつぎ込んでいたので、彼らが着ているものは、耐久性のあるものでなくてはならなかった。当時、アメリカ製のヘヴィー・コットン・ジーンズを購入することが可能だったとしても、彼らは安い英国製ブランドである、リブロやリー・クーパーの製品を購入しがちだった。それらのブランドのコットンはとても下等な素材で、着心地は最悪だった。彼らもまた、陸軍のサープラス・ストアでその手のものを購入していた。
左 :
女の子も、かなり似たようなものだね。初期の頃には、モヘアがとても人気があった。おそらく、ふくらんだ髪の毛のスタイリングをする際に、それがよく合っていたんだろう。縁に毛皮が施された安っぽいブーツと、安物のデニムのジャケット。自らのロック・アイドルを身につけることもあった──エルヴィスやクリフ・リチャードがフィーチャーされた、巨大なバッヂやものを付けている人たちがいたものだよ。すばらしいルックだよ。僕が最も気に入っているもののひとつだね。
右 :
このバイカー・ジャケットをわざわざ選んだのには理由があるんだ。これはビニール製のもので、当時とっても人気の高いものだった。この国は寒いので、キッズは革製のものを買わなかった。船員の着るセーター、船員の履くソックス、偽のカウボーイブーツとかね。古いチェーンやロープ、スタッズを打ったジャケットで自らを飾り立て、バイクを乗りこなす興奮に酔いしれていたのさ。